2009年11月11日 (水)

シーボルトの娘。いね

Dscf1241_2 ドィツ人医師シーボルトと楠本タキの間に生まれた幼女のイネは、父の影響を受けて、異人の子と言はれ、苦労して外産科医学を学びました。当時は、陣痛に苦しみながらの出産なので、西洋産医術に比べて遅れていた従来の出産方法の改善と、婦人病の治療に女医として貢献しました。其の後、荻野吟子が日本初の〔女性として医師免許を得た〕女性医師と言はれていますが、楠本イネの方が蘭方女医師として、年代と実績も先との記録があります。シーボルトは、日本商館付医員として、来日したドィツ人医師。文政6年28歳で来日。出島の商館に勤務して長崎に滞在中に、楠本タキとの出会いで、タキが好きになり、好意を寄せた交際が続き、タキも身ごもり、オランダ商館シーボルトの子として認知されて、イネが生まれました。しかし、〔シーボルト事件〕で父のシーボルトが、文政12年12月に日本を去った時のイネは、2歳8ケ月でありました。イネは父親譲りの赤毛で色白の彫りの深い顔立ちで、其の身柄は父の門人である二宮啓作に託されて成長し、母の生家の楠本イネを名乗り、弘化2年より、町医師。石井宗謙に産医学を学びました。其処で、村田蔵六(大村益次郎)に物理を教わっていた時に淡い恋心を持ちましたが、其の時にはイネも宗謙の子を宿していて、出産も生理現象だと割り切って、産医学の知識と経験をもって、独りで出産に挑んで、タカ女を産みました。当時の女性は、産婆を相手に、生死を分けた出産をしているのに、母屋では、夫と其の一族が酒を酌み交わして、出産を待っていましたので、其の様な考えを此れからは、変えて行かなければ成らないと、文久元年まで、育ての親の宇和島の医師。二宮啓作に就いて、それぞれの産科術を修めながら、明治2年まで、オランダ医師。ポンペに外科産科術を学んでいました。蘭方女医師イネと大村益次郎(村田蔵六)の恋も明治2年。不満を抱く士族の刺客に刺されて、其の傷がもととなり、敗血症となった時からイネはは絶え間なくガーゼと包帯の交換に追われ、食事から排便の始末まで、総てをイネが行ったが手遅れとなり、明治2年に益次郎が付き添いのイネに、見もられながら静かに息を引き取る迄、其の介護は続きました。其の後、維新史で村田蔵六は、大村益次郎と言はれています。現在いろいろと問題に成っている靖国神社は、大村益次郎の発案で戊辰戦争の戦死者を弔い、英霊の御霊を悼むために設立されましたが、彼の銅像は現在も靖国神社の境内に建てられています。又、イネは女性医師として、明治6年に福沢諭吉の推挙により、宮内省御用係となり、若宮(大正天皇)誕生に立会い、其の後、麻布狸穴に産科医院を開業。晩年は娘のタカと共に、静かに余生を過ごしたと言われています。画像は、☆浅草寺の宝蔵門☆お参りの時に信者が必ず通る☆浅草寺☆の大提灯でした。

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2009年9月21日 (月)

千葉佐奈の恋。

Dscf1082 virgo千葉佐奈は幕末に神田お玉ケ池で、北辰一刀流の道場★玄武館★を開いていた千葉周作の姪に当たり、桶町の千葉道場で小千葉と言われていたdog千葉定吉の次女でした。土佐のleo坂本竜馬が、入門してきたのは、嘉永6年4月でleo竜馬は19歳、virgo佐奈は3歳年下の16歳の乙女でした。leo竜馬は翌年6月には帰国しましたが、安政3年8月に再び千葉道場で、virgo佐奈と共に道場で修行に打ち込んでいましたが、更に一年の滞在延期の許可を得て、引き続いて道場に滞在しましたので、父はleo坂本竜馬を塾頭に任じ、翌5年1月北辰一刀流目録を与えました。leo竜馬は目録の中にvirgo佐奈の名も書き込む様に頼んでおりましたが、父は「例の無い事だ」と言いながらも、満更でもなさそうに佐奈の名を書き込み、leo竜馬に与えました。leo竜馬は24歳、virgo佐奈は21歳となり、leo竜馬も入門した時から較べると、たくましい青年となっておりました。virgo佐奈も21歳で、ぼつぼつと縁談の話もありましたが、virgo佐奈leo竜馬を想っているので、dog千葉定吉leo竜馬ならばと高知のhouse坂本家へ手紙を出して、leo竜馬virgo佐奈の縁談を許します。昭和60年にmemo青山文庫で発見されたleo竜馬の手紙にも男勝りのvirgo女武芸者で絵も巧く、好ましい女性。とpisces姉様に手紙で書き送っていました。只、leo竜馬も其の年の9月に自分の国に帰りましたが、何故か再び千葉道場へは姿を見せませんでした。聞けばcat勝海舟の門下生となり、勤王運動に参加して、江戸に来ても道場に来る間もないだろうとの事でしたが、virgo佐奈leo竜馬に心を定めて、良い縁談も断り、唯ひたすらleo竜馬を待ちました。其の頃のleo坂本竜馬は、bomb寺田屋襲撃事件で仲居chickお竜に助けられて、間一髪、命を救われています。この件を境に2人は急速に接近して、aries夫婦となった様だと言われています。忘れもしない慶応3年2月31歳になっていたvirgo佐奈に、leo竜馬が11月15日京都で暗殺されたと知らされました。この頃のvirgo佐奈は、両親、兄弟総てに先立たれ、縁者と言えば兄の養子、束位だけで、1人りぼっちですが、virgo佐奈は世話してくれる人があって明治15年9月、★学習院女子部★に舎監として奉職しました。其の頃(明治16年1月24日)から、virgo佐奈が大事に保管してある箱の中の、黒紋の付いた小袖には、桔梗を輪違いで包んだ紋が、染め抜かれていました。其の小袖はvirgo佐奈が、「之は父が、leo坂本竜馬に贈るために染めましたが、国事に奔走するので、私が形見として持っております」と話しています。明治18年9月、★学習院女子部★が華族女学校となり、下田歌子が校長となったのを機に学校を辞職し、其の後は、東京千住で千葉家に、昔依り伝えられている★家伝★の鍼灸治療を施して、独身を貫き、明治29年59歳で亡くなっています。遺骨は谷中cherry天王寺に、終生、leo坂本竜馬を慕った悲恋のvirgo千葉佐奈が眠っています。合掌・・画像は上野「東京芸術大学」の★大学祭★での創作神輿を若いgemini男女の生徒が担ぃでいました。

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2009年8月18日 (火)

良寛禅師と貞心尼。

Dscf11652 近在の村の子供らと遊び、自然を愛し優しく穏やかな逸話に包まれ、昔話や民話の人の様に伝えられて「俗にも非ず、沙門にも非ず」と、弟子も取らなかったaries良寛禅師は、大愚と号し越後の国。島崎に、世間が嫌いではないが、愚かな身には、草木や自然が合っていると草庵を結びました。其の庵も「立って半畳、寝て一畳、飯は食っても五合五勺」と言ってhouse「五合庵」と名付けて住み、村里の子供たちに、せがまれれば歌を唄い隠れんぼ。手鞠つきをして遊び「この里に、手鞠つきつつ子供らと遊び春日は暮れずともよし」長くなった春の日ですが、遊びたりないので、日が暮れないでほしいものです。と歌っていますがhouse「五合庵」は、山の奥深い山里なので雪深い冬は、snow身も凍える程粗末な庵での生活でした。文政10年の秋。aries良寛禅師69歳。virgo貞心尼29歳の時にhouse「五合庵」で、virgo貞心尼は初めてaries良寛さん逢う事が出来ましたが、初対面で「君にかく、あい見ることのうれしさも、まださめやらぬ夢かとぞおもう」お慕い申し上げている師にこのようにお逢い出来て、夢の様に思えて信じられない。と歌を贈ればaries良寛さん、「ゆめの世にかつ、もどろみて、夢をまた、かたるも夢よ、それがまにまに」人生そのものが、また、夢の様なものです。と歌で返しています。 一夜を語り明かしてvirgo貞心尼が帰る時「立ちかえり、又もとひこむ玉鉾の道のしば草たどりたどりに」また、お伺いしてもよろしいでしょうか?と、問うと其れに対してaries良寛さん「またもこよ、しばの庵をいとはずば、すすき尾花の露をわけわけ」良ければ、また来て下さい。と相聞歌を交わしていますが、以来5年余りの短い期間でしたが、暖かく心の通ったheart師弟関係が続きました。aries良寛さん74歳で病に倒れて、virgo貞心尼の看病中は、身体の全てを見せて人生の意味深さを教え、辞世の歌としてmaple「 裏を見せ表を見せて散るもみじ」と全て任せ、手厚く看取られながら、座禅を組んで入滅したと言はれて居ます。其の後、5年間にaries良寛さんvirgo貞心尼が唱和した歌を書き添え142首を収めたcute「蓮(はす)の露」一 巻をvirgo貞心尼が書き残して、明治5年柏崎のcherry不求庵で75歳の生涯を閉ましたが、aries良寛禅師を後世に伝える貴重な文献に成りました。インターネットの検索によれば、常盤台の洞雲寺にある、virgo貞心尼の墓石には辞世の歌ribbon「くるに似て、かえるに似たりおきつ波、立ち居は風の吹くにまかせて」と刻まれ、多くの人が歌碑に誘われて、この寺を訪れ、また、天保2年74歳で亡くなったaries良寛禅師も、越後島崎の隆泉寺。木村家の墓地に、葬られましたが、自然を愛し、童子の様な純真な心のままで生きて、其処にいるだけで徳があり、周囲を和ませるaries良寛禅師でした。画像は、熱海☆花火大会☆の宣伝パンフを配る、先輩芸者と可愛いchick半玉さん一緒の先輩芸者をはずして、chick半玉さん★目★を頂戴と声を掛けてパチリの一枚でした。

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2009年7月25日 (土)

シーボルトとお滝さん。

Dscf1302_2 其の頃の日本は、鎖国の掟として、オランダ人と他の外人は、house出島の内にて、住む処迄。決められていて、この島に住めるのは、貿易の仕事をするleo男性だけでしたが、そんなある日。bank商館長屋敷(オランダカピタン屋敷)の狭い廊下で行き逢った時の其のvirgo女性は、かすかに顔を伏せて、leoシーボルト(ドイツ人)の通り過ぎるのを待ちました。高々と結い上げた大きな髷に、何本もの飾り物を差した髪型で、一旦。通り過ぎてから、そっと起したvirgo女性振り向いたleoシーボルトの目が合って、leoシーボルトが微笑みかけると、其のvirgo女性は長く曳いた裾をくるりと裁いて逃げる様に行って仕舞いました。何と美しい黒い瞳だろう。其れと着物に炊き込める香木の香りなのか?良い香りが微かに残っていました。其のvirgo女性house出島の遊女、virgo其扇「そのぎ」で、互いに名も知らぬまま、この遠来のleo青年と新入りのvirgo遊女の間に小さな友情が芽生えました。virgo其扇「そのぎ」は丸山遊郭に出ていましたが、この日。二度目のhouse出島行きでleoシーボルトに逢ったのです。体格も顔つきも違い言葉も通じないオランダさん前に出るだけで、緊張のvirgo其扇「そのぎ」でしたが、この夜のleoシーボルトとの出会いで、気持ちもほぐれた様でした。その後のleoシーボルhouse出島でlibra医学やclover植物の講義を始め一般の日本人の出入りを許さないhouse出島に青年たちを迎え入れて、講義を受けさせました。わが国でもhotel蘭学を幕府も認めていましたが、hotel蘭学がlibra医学を始め、測量や軍事の実用に役立つ事が解って来たからです。其のうち彼はclover薬草の採集のため弟子と共に長崎の郊外に出る事も許されて、house出島の外に出るときには、彼を待って人びとは道に患者をつれてきて、leoシーボルトの診療を願う様になり、彼は親切にこの求めに応じました。又virgo「其扇」と付き合う内に熱心に日本語を習い、日常会話や物の名前をvirgo「其扇」は子供に教える様に、繰り返し教えました。ある日、leoシーボルトvirgo「其扇」の雇い主、event引田屋に交渉してvirgo彼女を☆自由の身☆に戻しvirgo「楠本タキ」として娶る事に成りましたが、日本語を覚えたleoシーボルトは日本独自の花。紫陽花アジサイ☆を好んで挿し木で、house出島の庭園や鳴滝の塾の庭に植えて、この花の学名をヒトランドゲァ・オタクサ。とvirgo楠本タキの名前を付けました。「オタクサ」とはvirgo☆オタキサン☆と発音出来ずに「オタクサ」と成っています。やがてleoシーボルトvirgoタキの間にchickイネが生まれましたが、この楽しい日々も長くは続かず、文政12年台風で流されたleoシーボルトの船からご禁制の品々が出てきて、house出島に軟禁状態の末。以来国禁申付候。との永久追放令と成り、此れが世に言うleoシーボルト事件と成って、virgoタキchickイネ親子は以来、後年までleoシーボルトとは逢えませんでした。その後、イネは成長して日本で女性では初めて蘭方女医者として、宮内省御用掛となっています。画像は紫陽花アジサイ☆ ですが、virgoお滝さんが語源と言われています。又、 当時では珍しいオウムにもvirgoお滝さんの名前を付けて、オタケサンと呼んでいたと言はれています。

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2009年6月22日 (月)

唐人お吉。

Dscf0436 嘉永6年6月に突如dogマシュー・ペリー提督ship米国艦隊が来航出現しましたが、幕府が何の対策も無く帰したので、嘉永7年1月に再びship米国艦隊の来航で幕府に、ship艦隊と大砲を背景にsagittarius「武力も辞さない」と言う圧力を掛けました。当時の日本としては、最新鋭のship黒船「蒸気船」が煙を吐く姿は、恐怖だったに違いなく、直ちにdogペリー提督「日米和親条約」を神奈川で締結後、leoタウンゼント・ハリス「通商条約」締結の為に下田に上陸させ、event玉泉寺を改修させてhouse領事館としました。又、通訳のcatヘンリー・ヒュースケンchick下田芸者のお福を侍妾としましたが、姉芸者で当時、virgo17歳のお吉を法外な年俸と引き換えに、leoハリスの侍妾とする様に下田奉行に働きかけて、virgoお吉leoハリスの処に奉公にあがる事と成りますが、奉行所役人森山多吉郎は、洋妾と成って国を救って欲しいと、virgoお吉に頭を下げて、「お前が承知して呉れたら、恋人のtaurus鶴松には、苗字帯刀を許して、御作事大工頭の組下にもしょうとお奉行も言っておられる」と恋仲の船大工のtaurus鶴松にも言つています。帯刀の許される身分に憧れて「刀が差してぇ」と言ってはvirgoを困らせていたのでした。virgoお吉には「支度金25両」一年の給金120両を呉れるとの事に、taurus鶴松から「吉ちゃん俺からも頼む」と言はれて、leoハリスの侍妾に成る覚悟で、house領事館と成ったevent玉泉寺の門をくぐる様に成りましたが、4日目の宵にleoハリスと夜を過ごさなくても良いと聞いて、嬉しくもあったが途方に呉れるvirgoでもありました。其れと支度金25両年俸120両virgoが受け取る事に対するimpact嫉妬からの意地悪も、当時の町の親達が取った行為と言はれています「通商条約」締結後、leoハリスship黒船艦隊と共に米国に帰りましたが、其の後virgoお吉に対する世間の目はimpact冷たく非情であり、網元の家での宴席に侍る仕事もめっきりと減り、当初はさほど生活に困る事も無く、給料も貰って居ましたが、周囲からたかられたり、自分たちも派手に使ったので、やがて生活も困窮して奉行所から30両の下賜金があり、此れが手切れ金となって、奉行所との縁も切れました。virgoお吉も流浪の果てに、下田にまい戻り、taurus鶴松と共に髪結業を始めましたが、ほどなく離別。更に小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業して居ますvirgo「唐人お吉」と言う相変わらず、世間のimpact罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩して、明治24年3月27日の豪雨の夜に、下田稲生沢川の淵に身を投げて、波乱にみちた50年の悲しい生涯を絶ちましたが、遺体を引き取る処も無く、cute宝福寺住職heart「竹岡大乗師」が、如来観音の胸に抱かれた姉妹として墓に葬りました。その後、virgoお吉自身の墓も作られてvirgo「唐人お吉記念館」に其の生涯を語り伝えられています。画像はvirgo「唐人お吉記念館」でのvirgo吉の墓と共に、virgoお吉の写真は、当時のribbon日本女性としては、瞳の綺麗な美貌の女性で「通商条約」締結の為に、お国の犠牲なった薄倖な女性でしたcherry合掌 cherry

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2009年6月 5日 (金)

在原業平。

Dscf0862jpg1 紀貫之(きのつらゆき)は、古今和歌集の和歌の名手として、僧正遍昭。leo在原業平。文屋康秀。喜選法師。小野小町。大伴黒主。の6人をあげていますが、いわゆる六歌仙で、この中の第2番目にあげたleo在原業平(ありはらのなりひら「在5中将」と呼ばれ。皇統の血筋でありましたが、風流の道に身を投じて其の生涯は、leo在原業平の1代記風の歌物語「伊勢物語」として残されますが、leo業平は眉目秀麗な美男子で、其の境遇を好色と歌に逃避したと言はれています。leo在原業平は、後のvirgo清和天皇の妃。二条の后。virgo藤原高子(ふじはらたかいこ)が未だ18歳の姫君で、leo業平35歳の時に、毎夜通って逢う瀬を楽しみましたが、やがてleo業平は、天皇の妃に成るための姫君を、横からつまみ食いしたと、宮廷人士の指弾にあってchick「伊勢物語」で有名な章段の「東下り」になります。leo在原業平も暫くの間、東国に赴き、其の道中で綴った歌に、有名な「名にし負はば、いざ言問はむ、都鳥。わが思う人はありやなしやと」と、恋しいvirgo藤原高子を偲んで詠んだ歌もありました。又、leo在原業平chick「伊勢物語」leo業平の歌を骨子に、代表的作品と言はれる、在五中将物語」を作ったとも言はれています。特に「ちはやぶる神代もきかず竜田川 pisces唐紅(からくれない)に水くくるとは」の歌は、不思議な事の多い神代でも聞いた事がない。青い竜田川の流れを絞り染めの池として、pisces唐紅の布の様に、pisces美しい紅葉を模様に染め出して(水くくる)いる様で、実に美しく不思議な状景である。と歌っていますが、誇張された奇抜な表現と生き生きとした大胆な言い回しが、leo業平の特色と言はれています。其の他にもleo在原業平「伊勢斉宮内親王」に思いを打ち明けて一夜を共にしましたが、☆virgo伊勢斉宮☆とは、伊勢の大神に仕えるvirgo清浄な女性であり、何人も侵してはいけない、☆神聖な女性☆と言はれ、翌朝virgo斉宮から「君や来し、我れや行きけん思ほえず、夢かうつつか寝ても覚めてか」(貴方がおい出になったのか、私が伺ったのか、あれは夢だったのか、うつつだったのでしょうか)と、思いを込めた歌がleo業平に贈られました。後年。二条院に住んでいるvirgo高子を偲んで、leo業平が庭の梅に目をやり、月が傾くまで、昔を思いつつ詠んだ「月やあらぬ、春や昔の春ならぬ、我が身ひとつはもとの身にして」(この月は昔の月と違うのか。この春は昔の春と違うのか。我が身だけは昔のままなのに、彼女だけがいないとは)と悲恋の身を歌っていましたが、leo在原業平も元慶4年5月28日56歳で没して、5月28日は、京都の菩提寺。西京区大原野。十輪寺「業平忌」があり歌を詠み、京舞が奉納されて、11月23日には業平紅葉の天ぷらが振る舞われています。画像は「伊豆高原駅」の☆伊豆テディベア・ミュージァムでの撮影。☆でした。  

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2009年5月15日 (金)

小野小町の生涯。

Dscf1270 平安時代初期の和歌の名人六人を、世にcute六歌仙と呼びましたが、中に唯一人の女性がvirgo小野小町☆で、絶世の美女であつたと伝えられています。virgo小町もさまざまな伝説に彩られましたが、virgo小町のもとに九十九夜通って死去したtaurus深草の少将の話は余りにも有名です。其の頃、virgo小町も自らの容色の衰えに気が付きheart花の色は移りにけりないたずらに、我が身世にふるながめせし間に」と、嘆いたのは、自然と考えられます。さて、昔からvirgo小野小町☆の事を書いたものには、virgo小町は段々と落ちぶれて、八十島(松島)と言う処の野辺で、野倒死をしたとの伝説が、甚だ有名な話となっています。そしてvirgo小町も遂に、野晒しの白骨となってしまった。と言うleo在原業平の伝説もこれから出たと言はれています。或日。chick野辺のほとりでchick若者が、うたた寝の中にvirgo小野小町☆が現れてrain吹きむすぶ風は昔しの秋ながら、ありしにもあらぬ袖の露かな」と、其の昔の身の若かりし頃。若殿達を悩殺して、引く手数多であった事を述べる姿に目覚めると、枕元にbell卒塔婆があり、誰あらざんと見てみれば、野倒死んだvirgo小野小☆の卒塔婆であつたとの事から、この伝説が薪能のvirgo卒塔婆小町」となって上演したと言はれています。インターネットで検索したvirgo小野小町☆には、大本山随心院に、virgo小町の晩年の姿を写したと言はれている珍しいvirgo卒塔婆小町」のcherry座像があります。歳老いて一族の所領で生涯を閉じる旅の途中の高郷村で、病に伏して生涯を閉じたとも言はれて、会津の古道にvirgoみちのくのうどの桜と人問はば、会津のそとのとうもての里」との最後の詠み歌もあり、penguin五輪の塔が残っていると言はれています。兎に角、数多い名歌と共に、華麗な恋の遍歴を重ねた彼女も、晩年はミステリアスな伝説に満ちた生涯であったと、無明抄に述べられています。諸説はいろいろあり、その末期は定かではありませんが、只、恋多き伝説に彩られた才色兼備な美女で有りました。六歌仙の一人と言はれたleo文屋康秀☆は、virgo小野小町☆と歌の同好で交際があり、leo文屋康秀☆が三河に赴任する時に、田舎見物に行きませんかとvirgo小町を誘っています。此れに対してvirgo小町は歌を詠んで「わびぬれば、身を浮き草の根を絶えて誘う水あらばいなんとぞ思ふ」この世に楽しみもなくなりました。誘って下さるのなら何処へでも行きましょう。と返答しましたが、これが有名な「誘う水の詠」であり、virgo小町の様なプラィドの高い女性でも、老いてからの恋は思う様には、成らなかった様子でした。virgo小野小町☆の縁の寺・随心寺(京都市山科区)には、virgo小町が男性から貰った千通の恋文を埋めたと言う、☆文塚☆が残っていますが、寺では、現在でも紅葉の季節になれば、月に雁を想い。note鹿の鳴き声には、歌人のvirgo小野小町を連想すると言はれてます。画像は、上野のお山の花見で、☆KOTA☆と☆おっと☆と言う全国各地で活躍中の2人組のheart夫婦〕のクラウン〔道化師heartでした。 

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2009年4月23日 (木)

樋口一葉の悲恋。

Dscf1242_2 さて、virgo☆樋口一葉☆(奈津)leo桃水と会ったのは、chick妹の「くに」の紹介で、leo☆半井桃水☆と初めて会う約束をしました。其の日は、霙(みぞれ)混じりのrain雨が降り、家を出た19歳のvirgo一葉(奈津)は、東京朝日新聞社に執筆して記事も書いているleo☆半井桃水☆に、指導を受る為に訪れました。挨拶を交わした後、言葉少なく、静かに対応しているvirgo一葉(奈津)に、leo桃水は「bell読者の興味を誘う様な小説を書いて、批評家から非難されています。」とleo桃水の方から話しの口火を切って快活に笑いましたが、leo桃水は色白で、背が高くて逞しく、それでいて穏やかで優しく見えました。virgo一葉(奈津)の目的はleo桃水に小説の師匠に成って貰うお願いだったので、「話は伺っています。苦しいでしょうが、何時でも話し相手になります。」とのleo桃水の言葉に、virgo一葉(奈津)の目から涙がこぼれそうに成りました。leo桃水は感激するvirgo一葉(奈津に「田舎者の風習で失礼ですが、」と、断りながら身体の温まるお汁粉を作る為。隣家cherryに鍋を借り行き、おかみさんのheart「お楽しみですね。」の冷やかしの声を聞きながら食を共にします。夕暮れになり、virgo一葉(奈津)carouselpony人力車を呼んでもらい帰途につきました。この時に今までに、受けた事のない程の優しさを、heart胸に秘めて帰宅しましたが、其の時からvirgo一葉(奈津)leo桃水への思いは、其の胸の奥に深く秘めて付き合う程に心は弾み、leo桃水との語らいに刻を忘れる程に通いましたが、何時訪れても変わらない、やさしさに、leo桃水への想いは其の胸に育ちました。翌年、virgo一葉(奈津)は新しい小説の講評を請うためにleo桃水宅を訪れますが、virgo一葉(奈津)leo桃水に会うと、近く「同人誌武蔵野」を発刊するが、寄稿して欲しいとの話に、早速、持参した「闇桜」を渡しますとapple「此れは良い是非お願いします。」とleo桃水の表情が輝き、この時の処女作品「闇桜」virgo「樋口奈津から樋口一葉」virgoの筆名で発表して、leo桃水は「創刊号は此の作品の為にある様なものだ」と伝え、leo桃水に求められる儘に、2号に「たま襷」を発表。3号に「五月雨」を寄稿しました。しかし「武蔵野」の売れ行きは悪く、発刊も危ぶまれleo桃水は当時の文壇の第一人者、dog尾崎紅葉virgo一葉の指導を託しました。virgo一葉も家計のために、下谷竜泉寺町に雑貨屋を開きましたが、翌年に店をたたみ、本郷丸山福山町に移つたvirgo一葉は、頂き物を持って、leo桃水の自宅を訪れますと、leo桃水は歓迎して呉れました。virgo一葉も会った瞬間からleo桃水への思いを、せき止める事は出来ない儘に「たけくらべ」を連載。「にごりえ」と一気にvirgo一葉の名を世に広めましたが、明治29年8月。virgo一葉は肺結核。もはや絶望との診断結果が伝えられ死期を悟り。「leo桃水様が、野辺を歩く時にはheart蝶になって、お袖の辺りで戯れましょうか」と述べて11月23日午前。virgo一葉は24歳でleo桃水との悲恋の生涯を閉じています。画像は☆house浅草寺☆の大提灯。下谷竜泉寺町に一時、住んでいたvirgo一葉も、この大提灯を通って、cute観音様を参詣した事でしょう。

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2009年3月28日 (土)

華岡青洲。

Dscf1214 leo華岡青洲は、江戸中期の医師で、紀伊の国平山でleo華岡流外科の創始者です。leo青州は、父、taurus直道。なおみち〕と共に、schoolオランダ外科」を学んでいましたが、その後京都でcherry「曼荼羅華。マンダラゲを配合の内服全身麻酔薬。heart通仙散〕を創作しました。このheart通仙散。つうせんさん〕を使って世界で始めて、全身麻酔に依るvirgo乳癌摘出手術に成功した外科医と言はれています。leo青洲は23歳の時に京都で医学を学び、昔、中国のaries華陀かだ〕と言う医師が麻酔薬を使って手術を行い、多くの人々の命を救ったと言う話を聞いて、leo自分も麻酔薬を勉強して其れを創り、此れまで誰にも出来なかった病気を治して、病に苦しむ人々を救えないかと、考えてleo自分は日本の華陀に成る」と3年間京都で猛勉強の末に、house紀伊国那賀郡平山に帰郷したleo青洲は患者の治療に取り組む傍ら、新しい治療法の研究と薬草採集と共に、麻酔薬の研究に打ち込む日々を送りました。麻酔薬の効果を確かめる為に、dog犬を使って数多くの実験を繰り返しましたので、住まいの平山ではdog犬がいなくなったと言はれましたが、dog動物実験に依る麻酔薬の効果を確認したleo青洲は、次のimpact人体の実験impactには誰に薬を飲ませれば良いか迷います。そんなleo青洲の気持ちを察して、virgo母〔於継。おつぎ〕とvirgo妻〔加恵。かえ〕は自分の身体を使って避けて通れないgemini人体実験を行う様にと自ら申し出ましたので、leo青洲も安全な麻酔薬の実験の為に、virgo母〔於継〕とvirgo妻〔加恵〕に麻酔薬を飲ませて実験を繰り返しました。virgo母〔〕は麻酔薬の完成を見る事も無く、64歳で亡くなり、実験中には、virgo妻〔加恵〕も麻酔薬の副作用で失明すると言う犠牲を伴いながら麻酔薬heart通仙散〕は完成して、文化元年。leo青洲は世界で初めての全身麻酔でのvirgo乳癌摘出手術に成功。leo華岡青洲の名声は全国に響きました。さて、apple有吉佐和子の小説で有名な「華岡青州の妻」でのvirgo妻〔加恵〕は、郷士の娘としてleo青州と結婚しましたが、その後、leo青州は、漢方と蘭方を折衷して〔内外合一〕のcancer臨床外科を研究して、長年の苦心の末。全身麻酔のheart通仙散〕を開発。成功しましたが、小説「華岡青洲の妻」に有る様に、virgo母〔於継〕との軋轢にも耐え、其の研究を身をもって支えたのは、virgo妻の〔加恵〕であり、麻酔薬の毒性を量るpisces親試実験piscesを繰り返した結果。virgo加恵〕は失明。その後、20年間を盲人として生きて、68歳で亡くなりました。leo青州弛まぬ研鑚。そして、virgo妻〔加恵〕の献身的な協力なくしては、この様な世界的な偉業は達成出来なかったでしょう。尚、leo青洲全身麻酔開発と言う偉業の完成で、多くの人の命を救い天保6年76歳で生涯を終えています。画像は、bell江ノ島弁財天何故か裸の弁天様で、子宝と賭け事☆宝くじ?☆にmoneybag利益が有るとかで、お金を洗う人が絶えません。このブログを読んだdollar皆様dollarにも☆金運☆のmoneybag利益が、あります様。祈るや切に☆☆☆ 
             

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2009年2月22日 (日)

石川啄木の生涯。

Dscf1200 leo石川啄木は、禅寺で産まれて神童と言れる程でしたが、明治38年、20歳になつた5月に処女詩集「あこがれ」を出版。翌6月に年来の恋人、19歳のvirgo☆堀合節子☆と結婚。盛岡加賀町に居を構えて得意の絶頂でありました。だが、岩手の渋民村では、生家の寺と檀家との間で、いざこざがあり、20歳に成ったばかりのleo啄木の弱肩の上に、一家扶養の重荷が降りかかります。その後、渋民村を離れ、盛岡。東京。札幌。小樽。釧路。と住まいを転々としました。 盛岡では周囲から、借金の批判を浴びながらも「中津川や月に河鹿(かじか)の啼く夜なり、涼風追ひぬ夢見る人と」明治37年7月のchick「明星」に、virgo節子と連作の歌が掲載され、家計は火の車でも仲睦まじく暮らした様子でしたが、借金はさらにかさみ、渋谷村に舞い戻り小学校の代用教員と成りますが、長続きせず「石もて追わるる如く」北海道に渡り、此処で道内の新聞社を渡り歩きます。明治41年、再び単身で上京。leo啄木が、23歳の時、すでに、長女pisces京子は2歳でありましたが。virgo節子親子は、姉が嫁いだcapricornus宮崎郁の好意で、函館の家に世話になりました。東京ではleo啄木は、朝日新聞社に入社しましたが、浅草での遊興や借金返済で生活は改善されず、virgo節子は娘共々、盛岡の実家に戻りました。其処では、中学校以来の親友であったtaurus金田一京助を始め多くの友人の骨折りで、virgo節子は東京に戻りましたが、其の時のleo啄木は、virgoなしの生活は、考えられない様子でした。その後、leo啄木も、明治43年10月に長男。penguin真一をもうけましたが、体質虚弱にて生後20日ばかりで亡くなり、leo啄木が帰宅する2分前に息切れたと日記に残してあります。「かなしくも夜明くるまでは残りいぬ、息切れし児の肌のぬくもり」との歌は、時を同じくして届いた歌集cancer「一握の砂」の校了紙に追記されています。virgo節子と結婚前のleo啄木dog与謝野鉄幹cat晶子夫婦の処で、居候として世話を受けると同時にchick「明星」を手伝いながら短歌を磨きました。其処で、leo啄木は、北原白秋。木下杢太郎。平出 修。平野万里。との交流を深めましたが、明治43年、其のchick「明星」も8年の歴史を閉じました。同時にleo啄木も短歌をまとめた歌集cancer「一握の砂」を刊行しましたが、此の年の暮れから胸部に異常があり、年越えて明治44年肺結核で入院。明治45年4月13日。ついに、体力が尽きて永眠しました。其の1年後の5月には妻virgo節子も、同じ肺結核で生涯を閉じています。尚、☆東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたわむる。たはむれに母を背負ひてそのあまり、軽きに泣きて三歩あゆまず等の歌を残しましたが、leo啄木の没後に詩集と歌集が刊行されました。leo啄木調の新しい表現と甘美で、感傷的な歌風を作り上げた短い生涯でしたが、其の抒情は現代でも尚、広く愛唱されています。画像は、満福寺のaries寿老人。兄、頼朝に義経が腰越の満福寺に留まって、腰越状を書いた義経伝説の寺院ですが、☆aries寿老人☆が祭ってありました。  

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2009年1月29日 (木)

お市の方。

Dscf1105 永禄10年にvirgo絶世の美女と言はれた、leo織田信長の妹。virgoお市の方は、21歳でcapricornus京極氏の執権、taurus浅井長政と結婚して、夫婦仲の良かった事は、結婚生活7年で2男3女をもうけている事実でも解ります。当時すでに浅井家の座に就いていたtaurus浅井長政は、織田家との同盟を望んだ上での結婚であったが、virgoお市の方との仲は円満でありました。horse長男、万福丸を始め、chick長女茶々、penguin二女初、fish三女小督お江与☆、の他、にcarouselpony2男、万寿丸も全て、virgoが産み育てたと言はれています。只、taurus浅井長政の了解もなく、同盟者のcapricornus朝倉氏を攻め、其の誓約を破って元亀元年にleo信長は、capricornus朝倉氏の攻略を開始しました。これを怒ったtaurus浅井長政は行軍中のleo信長を、capricornus朝倉と謀って挟み撃ちにする戦略で、軍を動かしますが、impact危機一髪で軍を撤退しました。此れが有名なleo信長の撤退劇で御座いました。さて、この時virgoお市の方は、taurus浅井長政の裏切りを察して兄、leo織田信長にいち早く知らせました。お市の方は、小豆を袋に入れて、leo織田信長の陣営に陣中見舞いと称して送りましたが、袋の上下を縄で結んで置きました。受け取ったleo織田信長は瞬時に「袋の中の鼠」の意を悟り、即刻、脱出できたと言う逸話は有名です。この時の、taurus浅井長政の裏切りを、leo信長が許すはずも無く、同年の姉川の合戦を経たあとの、天正元年。信長capricornus朝倉義景を倒すと、小谷城を攻略。taurus浅井長政は、共に死のうとするvirgo市の方に、子供たちの養育を頼み、小谷城から落とす決意をしました。leo信長も此れを同意。virgoお市の方、chick茶々、penguin初、fish小督、の四人はleo織田信長によって庇護されましたが、其の時、horse長男万福丸carouselpony次男万寿丸は男子なので助命は許されず、夜陰に乗じて城外に脱出を試みた、horse万福丸の方は織田軍兵士に見つかり、串刺しにされて殺害されています。又、自害したtaurus長政を始めcapricornus朝倉義景の首は、京中を引き回され獄門に晒されました。その後は、leo信長virgoお市を哀れに思ったのか、まだ27歳であったvirgoを、静かに清州城で余生を楽しませました。天正10年。cat明智光秀の謀反で兄のleo信長が本能寺で惨死すると甥のscorpius信孝は、織田家重臣aries柴田勝家との連携を深める為に、virgoお市aries柴田勝家に与えます。virgoお市の36歳に対して、夫になるaries勝家はすでに61歳であり、余りの歳の差にもimpactあがらう事も出来ず、☆越前北の庄城☆に嫁いで行きましたが、僅か8ケ月後に北の庄城は、cancer羽柴秀吉の猛攻を受けて落城しています。この時、aries勝家 は女子は降伏すれば、殺害されないので、virgoお市に城を脱する様にすすめました。実際に投降を申しでたvirgoの3人の娘は、救われていますが、僅か数ヶ月の生活であったvirgoは、aries勝家の言葉に首を振らず、最後の瞬間に脳裏をよぎったのは、heart仲むつまじかった、前夫のtaurus浅井長政の笑顔を思い出し、aries柴田勝家の手に掛かって、哀virgoお市は落命しました。画像は、巨大な☆蜘蛛☆のオブジエが、building☆六本木ヒルズ☆の展望台。☆東京シティビューアリーナ☆に登るイメージで、シャツターを切りました。 

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2009年1月 6日 (火)

静御前の舞。

Dscf1160 さて、源平合戦の後、兄のdog源頼朝との対立があり、文治元年にleo義経が、京を落ちて九州に向かう時にvirgo静御前も同行しますが、その折りに船団はrain暴風雨で難破。岸に戻されました。その時にleo義経に従ったのは、源有綱・堀景光・弁慶・とvirgo静御前のみと言はれています。後日、leo義経が吉野山に隠れているとの噂が立ち、吉野山の僧兵の捜索。藤尾坂の蔵王堂で、京に向かうvirgo静御前は、途中で従者に金銀を奪われて、山中をさまよい僧兵に捕らえられ、京の北条時政に引き渡されました。文治2年3月に母のpenguin磯禅師と鎌倉に送られたvirgo静御前は、一緒に鎌倉のcancer安達新三郎の屋敷に入りました。virgo静御前は、改めて問柱所の役人からleo義経の行方を問われても、leo義経の行方は知らないと答えましたが、只、その時に、leo義経の子を宿している旨を伝えています。又、鎌倉ではscorpius工藤祐経・scorpius梶原景茂・らのご家人達が、若者を連れて、virgo静御前の宿所に向かい酒に酔って艶言を言われて、virgo静御前も涙を溜めた事もありました。その後、鎌倉の鶴岡八幡宮にdog頼朝aries政子・chick大姫が参拝するので、其の折りに舞いを舞う様にと、virgo静御前を控えの間に召し出しますが、virgo静御前「不遇の我が身で言う事は出来ずも、leo義経の想われ人として晴れの場には出られず」と渋り続けたました。aries政子から「天下の舞いの名手がこの地に来て近々帰るのに、其の美しい舞いが見られないのは残念な事」とdog頼朝に勧め☆八幡大菩薩☆に供えるのだからとvirgo静御前を説得。静の舞いを行う事に成りました。文治2年4月鶴岡八幡社頭の舞台dog頼朝aries正妻・政子chick長女・大姫の前で、京で1~2を、あらそう☆白拍子☆のvirgo静御前は心を決めて舞台に立ちました。☆吉野山・嶺の白雪踏み分けて・入りにし人の跡ぞ恋しき・☆しづやしづ・しづのをだまき・繰り返し・むかしを今に・なすよしもがな☆と、☆しず☆からleo義経の恋慕を堂々と吟ずるvirgo静御前dog頼朝は激怒しましたが、潔く見事な舞いを披露したvirgo静御前に、ariesも同じに身を置く女性の立場からchick大姫と共に、深く感動してdog頼朝をとりなし、怒りを鎮め、ついに祝儀まで出させました。過酷な運命の渦中とは言え、鶴岡八幡の舞台は、舞の名手・virgo静御前にとっては、一世一度の見せ場でありました。其の後。7月29日にvirgo静御前は男子を産みましたが、cancer安達新三郎は、由比ヶ浜で、赤子を受け取ろうとします。virgo静御前は赤子を衣類にまとい抱き伏して、泣き叫びましたが、cancer安達三郎が取り上げて、即刻。由比ヶ浜で命を奪いました。その後、傷心のvirgo静御前は京に向かう途中。下総国下辺見でleo義経の最後を知り、すぐに髪を切り仏門に入るも「伊坂の里」で病に罹り9月15日に享年20歳で帰らぬ人となりました。埼玉県。栗橋の光了寺にはvirgo「静女の墓」と、「厳松院殿義静妙源大姉」virgo静御前の戒名があると言はれています。画像は、熱海駅の改札前で、若い芸者さんが、正月の☆熱海花火大会☆の宣伝パンフを配っている処を、了解を得てのスナップでした。
   

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2008年11月24日 (月)

「光と影の画家」レンブラント。

Dscf08571 17世紀。オランダで活躍したと言はれたcherry「フェルメール展」東京都美術館で12月14日に終展となります。同時代のオランダの美術界では、黄金時代を迎え、其の中で、dogレンブラントは、絵画のなかに劇的な光を登場させて、絵画表現に無くてはならない光と空間の影を特に使って「光と影の魔術師」と言はれました。cherryフェルメール「静の画家」と言はれて、其の作品も30枚程が残っているだけと言はれています。だが、其の頃、妻になったvirgoサスキアは、資産家の娘で8億円の持参金と共に、dogレンブラントに嫁いだと言はれています。特にchickフローラのモデルに成ったvirgoサスキアは、dogレンブラント「自画像」の画家とも言われ、素描を含め数多くの自画像の作成にも、夫を助けたと言はれていて、他の画家と比べても制作の数も際立つています。又、快楽的な絵画や裸婦も描いて人気を得ましたが、dogレンブランも若くして大きな工房を持って、多数の弟子を擁し「明暗の画家」と言はれ特に、56歳の時に描いた「聖パウロに扮した自画像」では、其のテクニックが、遺憾なく発揮されて、光と影のコントラストはdogレンブラント・ラィト言はれていますが、生涯で絵画だけではなく、版画や素描も含めると75点を越す自画像が残されていると言われています。さて、dogレンブラントと言うと、絵画ではbell「夜警」ですが、この頃の絵画はcherryフェルメールの様に、静かな情景の絵画が望まれていました。この作品はschoolアムステルダムの市民のsagittarius自警団で「火縄銃隊」の隊員が、隊長の号令のもとで、まさに出動の瞬間を描いたものですが、肖像画の様にポーズをとった人物は描かれていません。impact銃に弾薬を詰める隊員やflag軍旗を掲げている者。隊長と副官が作戦を練っている姿と、犬や少女の姿も隊の出動風景にリアルティーを付加していました。現在ではこのbell「夜警」は集団肖像画の到達点を示すものと評価されていますが、当時。コック隊長が希望した絵と異なる絵画でしたので、物議をかもし自衛団のgeminiメンバーはこの絵に代金は払えない。とクレームを付けました。当時の「集団肖像画」は皆が同じ大きさで公平に描かれるのが常識。記念写真の様なものなので、代金も割り勘で払っていました。dogレンブラントは、この肖像画で自衛団が出動する時の臨場感を表現したいと考えて、annoy銃に弾を込める者、威勢良く旗を掲げる者、そして副官に指示を出す隊長。・今まさにbell「夜警」に歩き出しそうな、出動前の緊張感を描こうとしたのでした。其の頃のdogレンブラントは最愛の妻。virgoサスキアが産んだ幼い子、ティトゥスを残して30歳で他界。其の一人息子も26歳で早世しています。その後、dogレンブラントも家計の逼迫で破産をして、困窮のうちに1669年10月6日に63歳で、静かに生涯を閉じています。画像は、伊豆高原のbirthdayXマスで、デディベァ・ミュージアム☆snowサンタクロースでした。

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2008年11月 5日 (水)

熊谷直実。

Dscf1113_2bell祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり。virgo娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す。notes奢れる人も久しからず、ただ、春の夜の夢の如くで、始まる平家物語での☆平敦盛☆の最後は、西国に追われた平家が、一ノ谷(兵庫県神戸市)まで戻り、陣をかまえましたが、寿永3年源義経が、ひょどり越えから急襲すると平家の軍勢は忽ち敗走しました。leo「熊谷次郎直実」は「戦破れになれば、平家の公達は水際の方へ落ちて行くだろう。と考えて磯の方に駒を進めましたが、其処に浪打ちぎわを逃げようとした、aries鍬形打ったる兜の緒を締め、黄金作りの太刀を履き、滋藤(しげとう)の弓を持ち連銭葦毛のhorse馬に乗ってる武者一騎を呼び止め、leo熊谷直実「敵に後ろを見せるのか」と一騎打ちをし、返る処でむんずと組み取り首を欠かんと、兜を押し上て見ると歳の頃16~7才程で薄化粧に染めた若者の顔に我が子の小次郎と似た容貌も、誠に可憐であり、leo名乗りなさい助けましょう。」と言えばchick「汝は誰ぞ」との問いにleo「武蔵の国の住人、熊谷次郎直実」と名乗るとchick「名乗る事はない、首実検をすれば判ることだ」とけなげに答えたchick「首を取って人に問え」と臨み、leo熊谷直実はこの殿の両親が、討たれたと聞いての嘆きは、我が子小次郎が薄手を負っても、心苦しくなる親の気持ち、察して余りありleo「助けましょう。」と声をかけたがchick「疾く首を取れ」との言葉に後ろを見れば味方の軍勢50騎ばかりが、走って来るのを見てleo「よもや逃れられず、後世の為のご供養つかまっる」と心も消え果てて、前後不覚のうちに首を取りましたがleo「弓取る武芸の家に生まれなければ、かかる憂き目に逢わずとも」と、さめざめと泣き、鎧、直垂を取って、首を改めた時に、錦の袋に入れた名笛☆小枝☆を、腰に差しているのを見てleo「暁に城の内にて若葉の笛を吹く、此のお人こそ平敦盛殿と知り☆いとほしや☆と、かき口説き首を抱き、袖で顔を覆い涙を流したと、平家物語で語られています。幼いchick平敦盛の首をはねたleo熊谷直実は、空しさから仏門に入る決心をして、法然上人を訪れて、教えを受け佛門に入つたleo熊谷直実は、出家して法然上人よりleo「法力房蓮生」と言う法名を与えられました。法意で、佛門に入ったleo熊谷直実は☆chick平敦盛☆を弔うために高野山に「熊谷寺」を建てた他にも、京都と熊谷(熊谷市)の間を行き来し各地に寺を建て念仏の功徳を説き、名僧と言われましたが、後に熊谷郷に帰り草庵に住み、熊谷寺(ゆうこくじ)がleo「熊谷直実」の☆菩提寺☆と成っています。今年は「源氏物語」の☆千年祭☆と言はれていますが、leo熊谷直実の何と!☆8百年忌☆も近いと言はれています。画像は、building六本木ヒルズ52階のfuji東京スカイショツト」のpigハロウィンバージョン☆での撮影でした。         

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2008年10月 4日 (土)

野口英世。

Dscf10801 leo野口英世は、明治9年福島県の貧しい農家の長男として生まれ、まだ幼い1歳の頃、囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負いました。明治22年、猪苗代高等小学校教頭、☆小林栄☆に其の成績を認められて、同校入学。渡部医師から大手術を受けています。この事が、leo英世に医学者を志すきつかけと成ったと言はれていますが、その後、医学の勉強に励み、渡米後は業績を残し、世界各国での評価を不動のものとしています。異国で黄熱病を研究するも、其の病に感染して死亡しましたが、明治33年。leo英世が渡米して、schoolペンシルバニア大学の研究室からschoolロックフェラー医学研究所に籍を置いていた頃。職員の夕食会に、virgoメリーは、note女性ピアニストとして呼ばれて、其の旋律は宴に華を添えました。leo英世の脳裏には確かにvirgo彼女の顔は記憶されていたが、新しい場所で、いつ寝たのか判らない程に研究の虜に成っていたleo英世の姿に同僚達は「研究の虫」と呼んでいました。其れから数年後に偶然、2人は街頭で出会って、leo英世は持っていた「薔薇の花束をメリーに捧げた」とG・エクスタィンは述べています。virgo彼女アィルランド系移民の家に生まれて「生きるために精一杯の貧しい移民の家族」でvirgoメリーもピァノを弾くショービジネスに従事していたと言はれています。結婚のいきさつは、virgoメリーはマートルと言う15歳の少女と同居していましたが、leo英世は度々、其のアパートに出入りして、マートルにも恋人が出来て、4人ともに意気投合して、leo英世virgoメリーに「結婚しょう。」と言ったので、早速、☆民事判事☆を知り合いのバーテンから紹介して貰い、結婚は成立しましたのが、leo英世34歳virgoメリー35歳の時でした。結婚したが、2人共に経済観念に乏しく、浪費癖も共通していたので、生活は苦しかった様でした。翌年に日本からleo英世に、縁談を勧める手紙が届きましが、其の返事もしないで、後年、leo英世virgo彼女を紹介する手紙を送りvirgoメリーとは数年来の付き合いで、性格も正直で親切なる者に有之」と書いてありますが、渡米の際、東京の斉藤ます子との結婚を前提で斉藤家から費用を出して貰っていたので結婚詐欺と言はれたり、又、研究所の女性助手と噂になった事もあった様でした。只、昭和3年。英世が黄熱病の研究の為にアフリカに発つと、virgoメリーに愛情あふれんばかりの手紙を送っていますが、死を予感して気力も衰えvirgoメリーに甘えたかった様でした。訃報がvirgoメリーに届くのは其の直後でしたが、virgo彼女leo英世が残した財産から日本に送金を続けて、それは日米開戦まで続き終戦から2年後にvirgo彼女は世を去りました。尚、virgoメリーニューヨークの墓地でleo英世の横で寄り添うように眠っています。画像は上野「東京芸術大学」の☆大学祭☆で神輿と、其れを担ぐ威勢の良い、女子学生の晒しに半纏姿でした。
                   

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2008年9月 1日 (月)

「静の画家」フェルメール。

Dscf0815_2 ヨハネス・フェルメールは、1632年から1675年の17世紀オランダで活躍したフランドル派の画家で、レンブランドと並び17世紀のオランダ美術を代表する画家と言われていましたが、旅館の経営を行う傍ら、絵を描き画家として生涯のほとんどを、故郷のデルフトで過ごしたと言うariesフェルメールには、今だ謎が多く、作品に関わる遺品もほとんど発見されていません。しかし、作品は約36点あり又、其の作風には、様々なものが存在しますが、記録に残っているariesフェルメールの作品は22年と言う画暦から見れば、少ないと言はれています。ariesフェルメールが他界後、一度は忘れられた存在でしたが、19世紀後半に彼の作品が再び注目を浴びる様になり、17世紀において活躍した画家の一人として賞賛される様になりました。巷間、ariesフェルメール「静の画家」と言はれますが、確かに作品は鑑賞する者にきわめて静かな印象を与えるものが多く、登場人物も1人かせいぜい2~3人です。1人の場合はvirgo女性が多く、そして寡黙。じっと静かにcherry編み物をしていたり、cherry手紙を読んだりしているだけのさりげない日常のひとコマに過ぎず、描かれている場所も小さな部屋の中と言うのが、ariesフェメールの作品の特徴となっていました。さてvirgo「青いターバンの少女」と言はれている絵で、其のvirgo少女のターバンの青色が見る者に強い印象を与える傑作ですが、しかしariesフェルメールは当時、超高級絵具であったウルトラマリンブルー「オランダの光は特別」と思わせまる為に多用しましたので、このブルーは「フェルメールブルー」とも言はれましたvirgo「女と召使」appleアーミン柄の何時もの黄色い服をまとったvirgo女性に、virgo召使が手紙を差し出しています。指をあごに当てて、virgo幾分怪訝そうな顔つきでいるのが気に成る処ですが、身体中に光を浴びているのとは、対象的にchick戸惑い気味の顔つきと仕草はariesフェルメールの特徴でしたvirgo「牛乳を注ぐ女」此れも典型的なariesフェルメールの作品で、画面中央にvirgoメイドらしき女性が、机の上のミルクポットにミルクを注いでいます。上着は山吹色で、スカートはマリンブルー。其の足元には小さなストーブを描きいれてありますが、オランダは冬の寒さが厳しいので、ストーブを描く事で冷たい空気感が伝わってきますvirgo「窓辺で水差しを持つ女」も薄い黄色の上着にマリンブルーのスカートで構図もvirgo「牛乳を注ぐ女」と似ていますが、静かな印象を与えていますvirgo「レースを編む女」は白絵具で小さい点を幾つも描いて独特の光に満ちた絵を描いていました。其の謎に満ちた天才画家のariesフェルメールも1675年に43歳で、故郷のデルフトで亡くなっています。尚、2008年8月から東京都美術館のaries「フェルメール展」では7点の作品が展示されています。画像は「伊豆サボテン公園」のピックなspa温室の中の美しい噴水でした。

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2008年7月28日 (月)

荻野吟子の戦い。

Dscf1050 従来から医術は、日本独自の漢方医術がありましたが、西洋医術に依る日本人医師の育成も出来て、明治16年に太政官通達のaries「医師免許規則」で「医師ハ医師開業試験業免許ヲ得タル者トス」と定められる様に成りました。さて、此れに依ってcherryblossom「日本の女医第1号」と言はれたvirgo荻野吟子は、10歳で「4書5経」を覚えたと言う才知とheart01「目千両」と言はれる程の美貌でした。だが、virgo吟子は嫁いだ相手から、scorpius淋病をうつされて離縁となり、母に付き添われて順天堂病院に入院しました。其処で、leo病院長佐藤尚中の診察を受けた時に、男性学生たちの目に自分の秘処を曝す姿態をとらされて、手当をされると言うangry屈辱を強いられて「男でなくcherry女医師にならなければ」と決意して、明治6年virgo吟子22歳で単身上京。taurus皇漢医井上頼圀(よしくに)の門下で学びました。明治8年virgo吟子24歳の時に、school東京女子師範学校開校(現お茶の水女子大学)に第1期生として入学。one首席で卒業して、進路指導教師に医学校に進みたいと希望を述べますが、当時の医学校は女人禁制なので、医学校のleo教授石黒軍医を紹介されました。leo石黒virgo吟子の熱意に動かされて懇願を続けるvirgo吟子に、ようやく「引き受けよう」と言う下谷練塀町heart好寿院がありましたが、其処で男性の迫害とimpact戦いながらもheart好寿院の学期を終わりました。早速、「医師免許規制」で定められた開業試験の願書を出しますが、virgo「婦女子に免許を与えた例はない」と受付て貰えず、窮したvirgoは再びleo石黒を頼り、前に倍する情熱でcherry女医の必要性と、医師試験の門戸が女性にも開かれるべきと説いましたので、leo石黒も其の熱意の奔流におされて「結局女医師の前例がないから」と言はざるを得ませんでしたが、此処でvirgoの深い教養が生きました。其れは以前学んだ本にapple「女医博士」の文字を見たので、其れが「令義解」りょうのげぎだ。と食い下がり、又、国学の師 taurus井上頼圀を訪ねて、其の本と添え書きを貰い「令義解」8巻。最古の医事法令「医疾令」にcherry「女医」が出ている事が確かめられて、leo石黒は衛生局長にcherry女医の必要性を認めさせます。明治17年9月3日、virgo荻野吟子は4人の女性と共に医術開業前期試験を受けて、virgo吟子1人が合格。翌年3月7日に後期試験があり、此れも合格して政府公認のcherry女医第1号が産まれました。明治18年3月。日本の女性に医師の道が開かれた、長い戦いのvirgo荻野吟子は34歳でありました。その後、青年牧師capricornus志方之善と、ribbon結婚して北海道に入植しましたが、明治38年之善が病没して、本所小梅町にschool「婦人科荻野病院」を開業。cat花柳病治療に専念して晩年を送りましたが、明治41年12月肋膜炎を併発して、58歳で惜しまれながら病没しました。画像は足立区で珍しい駐車場のある銭湯。「たちばな湯」のご主人。其の両手は、昔の働き者のrock親父の頑固impact男の手でありました。

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2008年6月22日 (日)

上村松園。

Dscf0402 virgo上村松園は、名をvirgo津禰(つね)。明治8年、京都の茶葉屋heart「ちきり屋」で、父親の名も知らずに生まれ育ちました。母親のaries(なか)は26歳から後家のまま2人の娘を育て上げたが、特に父を知らないvirgo津禰は、幼い頃から絵が好きだったので、paper反対を押し切って、明治20年。公立京都府画学校に入学させました。happy01師事したのは、南画北宗の40歳近い大家のleo鈴木松年に学びましたが、15歳の時の作品が博覧会で入賞しています。だが、有名になった事で、男女共学の教室で、dog美貌で紅一点のvirgo津禰は妬まれると共に京都では、彼女が慕った師から与えられるテーマは花鳥風月が支流で、人間が書きたい。と思っても美人画は、むしろ江戸に描き手が多く、其れでもleo松年に私淑してvirgo松園の雅号を貰って独自の勉学に励みました。順調に画家人生を歩んでいたvirgo松園だが、25歳の時。日本美術院展に出品したcherry「花かざり」が一等銀牌と成ると、全国的に名が知られ、又、同年のパリ万博にもcherry「母子」を出展して、国際的にも好評を得ています。其の順風万帆であったvirgo松園が27歳で、何と未婚で男の子を産んだのでした。其の子、chick信太郎の父は、virgo松園の師であるleo鈴木松年であると言はれています。virgo松園は子供を母親のariesに預けて、画業に専念しましたが、ariesは「お前は家の事はせいでもよい。一生懸命に絵を描きなされ」と励ましてくれました。virgo松園は「私を産んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と感謝していましたが、其のvirgo松園も40歳を過ぎた頃に大きなスランプに陥ります。其の頃、時代も変わりspade西洋から新しい文化が入り、virgo松園が描き続ける古風な日本女性達にも、「固い」「感情が伝わらない」との批判も出てきました。悩んだvirgo松園はいつしか絵が描けなくなりましたが、彼女は、心の奥にある苦しみや悩みと共に、嫉妬の感情から目を反らさずに、新しい世界を模索したcherry「焔」は、恋に身を焼かれ怨霊になった女の情念を、描いた努力の傑作でした。又、virgo松園は亡き母の面影を求めたcherry「夕暮」では、「ほんの此れだけ縫ったらしまうのやよって・・・ほんに陽のめが昏らうなった」と日の暮れる迄、針を持つ手を休めない亡き母の面影と、脳裏に焼きついた母の働く姿。其れは暮らしを守り、家族をいつくしむ、日本の女性達の日々の営みでした。virgo松園が求めた女性の美は、華やいだ若い女性の姿でも、情念の女でも無く、其れは母の姿でした。画像は、上野「国立西洋美術館」前の本館ギャラリーで、sagittarius大空に矢を放とうとする男性像。此れは、ブルーデルのpunch「弓を引くヘラクルス」で、ギリシャ神話の英雄ヘラクルスが、地上からあらゆるdog害悪を取り除く12の難行を成し遂げ、神性を与えられて岩に足をかけ踏み込んで、thunder害悪の怪鳥をまさに、impact射止めようとする瞬間を捉えています。   

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2008年5月27日 (火)

俳人小林一茶。

Dscf0079 小林一茶も全国を放浪しながら俳諧修行や俳句の教授で、生計をたてて来ましたが、そんな彼も50歳を過ぎると、余生を信濃国柏原村で過ごそうと帰って来ましたが、独り身が寂しく52歳の時に28歳になる「菊」virgoと言う名の女性を妻に迎えました。この時。小林一茶は初婚で、妻になる「菊」virgoは、新田赤川の常田久右衛門の娘でした。「50婿、天窓〔あたま〕かくす扇かな」leoこれは一茶の句ですが、歳を得て妻を娶った事を気恥ずかしく感じていた様でした。只、日記には自分と妻の歳の差から野山へ入り強精になる薬草を探したり、蛇の黒焼きを求めた記述が見られ、若き妻を得て毎夜が楽しかった様子が目に浮かびました。bellさて、一茶夫婦に子供が出来たのは、2年後に生まれた男の子。「千太郎」でしたが、生後わずか28日で早世しています。だが、再び「菊」virgoは懐妊して、長女「さと」heartが誕生します。一茶はこの娘を溺愛するが、幾つか言葉を覚えた頃に痘瘡に罹って、夭折してしまい、此れには一茶の悲しみも深く、娘の死を悼んだ文を「おらが春」に書きこんでいます。「おっむてんてんや、apple頭を左右に振る仕草を喜び、いたずらが大好きで、chick・・・踊りの声がすると、調子に合わせて踊ってもいた。pisces」と書いていますが、此れには一茶の回想を読むと胸が熱くなります。次男の「石太郎」が誕生しますが、其の年に一茶も中風で倒れ、その後どうにか翌年には、症状も回復へ向かいますが「石太郎」「菊」virgoの背中で窒息死しています。weep今度は、何と妻の「菊」virgoが、だんだん弱っていったので、実家に帰して看病して貰いましたが、吐瀉が続いて衰弱して37歳で息絶えました。think「小言いふ、相手のほしや、秋の暮れ」妻が、亡くなってから詠んだ句でした。「菊」virgoに続いて3男の「金三郎」も死んでしまい、一茶は61歳で再び天涯孤独になりましたが、その後、寂しさに耐えかねて、文政7年38歳の「雪」virgoと一緒になるが、肌が合わず離縁に終わります。scorpiusこの時に一茶は再び中風を起こしたが、文政9年には連れ子のある、「やを」virgoと言う32歳の女性を妻に娶っています。heart其の折に3度目の中風の発作におそわれて、享年65歳でその生涯を閉じていますが、「やを」virgoは翌年4月に「やた」heartと言う女の子を産んでいました。cherry画像は、足立区六月(むつき)の「炎天寺」での俳人小林一茶の像ですが、「痩せ蛙負けるな一茶是にあり」の句もあります。此れは、一茶が蛙合戦で、激しく争っているのを見て、「負けるなょ」rockと痩せ蛙を声援している句ですが、句碑のある竹ノ塚辺りは、最近は其の面影も忍べませんが、当時は蛙も多く蛙合戦が、見られたと言はれていました。毎年11月23日に恒例の「一茶まっり」があり「俳句大会」noteと共に、ユニークな「蛙相撲」punchの行事も行われています。

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2008年4月25日 (金)

竹久夢二と其の女達。

Dscf0986_2 大正ロマンの時代から、今なお愛されている竹久夢二の美人画。其の独特な雰囲気の美人画は、どの様にして生まれたのか?、其処には、夢二に影響を与えた3人の美女の姿が有りました。夢二は絵の修業の為に独特の方法でスケッチをして居ましたが、その折に、長い睫毛に大きな瞳。なめらかな眉の美貌の女性で、早稲田の鶴巻町で、明治39年に絵葉書店を開店した女主人の「他万喜」たまき〕と、夢二は絵を売り込みに行って知り合いました。彼女こそが、夢二の描く女性の原形と言はれています。翌40年に夢二は、他万喜と結婚しました。翌年、虹之助が生まれて、他に2人の子を得ましたが、浮気性の強い夢二は、他万喜と一緒に訪れた避暑地で出会った〔タカ〕と言う女性に恋して、夢二の代表的な詩と言はれている「宵待草」待てど暮らせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ、☆と詩い、タカと付き合うと思えば、文学者志望の人妻、山田順子とも付き合い、其れも発覚して、度重なる浮気が原因で、他万喜とは離婚しています。其の中で夢二が出会ったのが、他万喜の店に出入りしていた笠井彦乃〔ひこの〕でした。彼女は美術学校で日本画を学ぶ学生で、実家が日本橋の紙問屋の娘。勿論、離婚したばかりで、虹乃助と暮らす中年画家と、18歳の箱入り娘との恋は許されません。「人目を気にする事なく、彦乃を描きたい」と、彦乃を連れ出し、京都で暮らした夢二は、何枚も彦乃をモデルに絵を描いています。しかし2人に残された時間は、多くは有りませんでした。彦乃は此の時すでに結核を病んでいて「私は静かに成りました。お仕事を大切に、会いたいけれど・・しの」が大正9年1月。25歳の最後の言葉でした。夢二が生涯で一番愛した彦乃を、モデルにした代表作「黒船屋」は、彦乃の死の前年に描かれていますが、「夢二式美人」の最高傑作と言はれる此の絵からは、結核で亡くなった彦乃のイメージを強く感じる事が出来ます。其れから間もなく永遠の恋人の彦乃の面影を追う夢二の前に、彦乃の代わりにポーズをとる女性がいたが、其れが「お葉」で絶世の美女と詠われた彼女は、日本のモデルの草分け的存在でもありました。意気投合して、同棲を始めるが、お葉夢二だけのモデルではなく、伊藤晴雨など、さまざまな画家のアトリエに通う、お葉との其の恋も破局しました。その後、夢二は、奇しくも最も愛した彦乃と同じ病の結核で、昭和9年9月49歳で亡くなっています。其の遺品からゆめ35。しの25。」と刻まれたプラチナの指輪が見っかりましたが、大正ロマンに活きた「夢二の女」達は、文京区根津の「竹久夢二美術館」の絵の中でも息づいていました。画像は西新井大師で、4月8日の花まっりに、可愛いお稚児さんが引く白象の山車でした。

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2008年3月30日 (日)

マリー・アントワネット。

Dscf0963 さて、1755年オーストリアのマリア・テレジアの末娘として生まれたマリー・アントワネット。14歳で、このオーストリア皇女は、1770年5月16日にフランスの王位継承者で、後のルイ16世結婚して王妃に成りました。彼女は実家である皇室で身に付けた自らのセンスで、フランスの磁器、宝飾品などを好み、バレエを嗜みました。ヴェルサイユ宮殿では、マリー・アントワネット王妃はもてはやされ人々は、彼女の美しさと快活さを称賛し何よりも、当時の芸術上の流行や新しい感覚に敏感でヴェルサイユ宮殿では、洗錬された装飾芸術と共に、音楽又は、ファツション分野で、自らの芸術的な好みも発展させましたが、スキャンダルと浪費癖によって其の人気も急速に衰え、フランス革命が始まると、政治的な利害関係に翻弄され、ルイ16世の和解も失敗して、人々の憎悪を結集させました。フランス革命に倒れ、国王ルイ16世は、パリ市民の集まっている広場の断頭台で処刑されましたが、子供を守る為に(ルイ17世と2人の王女) 国王ルイ16世の後を追う様に、38歳で王妃マリー・アントワネットも同じく断頭台の露と消えました。その後、追放されていたナポレオンの帰還で、王政復古と共にフランス革命も収まりますが、ルイ17世も謎の死を遂げていました。だが、そんな悲劇の王妃、マリー・アントワネットと31年間にわたって友情を育くんだ女流画家がいました。それは、美貌の画家として知られるヴィジェ・ルブランでありましたが、運命の出会いは、「赤字夫人」と揶揄されていた 王妃マリー・アントワネットから肖像画の依頼を受けた時に、ルブランが見た王妃は、其の美しさと裏腹に、何処か寂しげだったが、同年代と言う気安さから、ありの儘の心を語る王妃に、ルブランは深い共感を覚える様に成りました。その後、「バラを持つマリー・アントワネット」を始め、ルブランは、1枚の肖像画「マリー・アントワネットと子供たち」を描くが、其処には、子供たちに囲まれた母の姿が描かれていました。只、この作品は人々に好意的に受け止められましたが、歴史の歯車は止められませんでした。ルブランは革命が起きると国外に脱出して、亡命先で王妃の死を知り深い悲しみと共に、海外を転々としながら1枚の絵「亡き後の王妃」を描きましたが、キャンバスで微笑むのは質素な衣装に身を包んだマリー・アントワネットの姿。其れは只一人残された娘マリー・テレーズの為に描かれた絵。其処には歴史の波に翻弄された1人の女性の姿がありました。画像は、黄昏夫婦で東京都美術館の「ルーブル美術館展」を見学の折。生誕250年の美しい「マリー・アントワネット王妃」の姿でしたが、日本ではフランス革命を舞台にした「ベルバラ」が話題となっていました。

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2008年3月 4日 (火)

木曽義仲と巴御前。

Dscf0356巴御前の兄には、樋口兼光、今井兼平がいましたが、この3兄弟は義仲とは乳兄弟でした。木曽義仲は、26歳までと共に兄妹の様に育ち、2人はやがて結ばれます。その後、治承4年に「平家追討」の令旨を奉じ、木曽義仲は信州佐久地方へ出陣して、巴御前義仲とくつわを並べて戦塵の渦中に踏み出しました。寿永2年に木曽義仲は北陸路の倶利伽羅峠で、平家の大軍と戦いましたが、夜間、牛の角に松明を点けての夜襲に7万の平家軍を暗闇の谷底に突き落としての勝利の話は有名です。この火牛の計は巴御前の発案とも言はれていますが、この頃の事を「平家物語」では巴御前「強弓を引く大力勇士。荒馬に乗り悪所を越すも達者」と明記してありました。横田河原の初戦では敵七騎を討ち取ったと書かれています。その後、木曽義仲は朝廷の要望で都の平家を討伐し「旭将軍」と迄言はれましたが、田舎者の木曽義仲の部下達が京の都で狼藉を働き、後白河法王から鎌倉の源頼朝義仲追討の密命を出し、頼朝は弟の範頼義経を派遣して義仲を成敗させました。其の時の戦いで木曽義仲の軍は相次いで破れ大津の「打出ケ浜」で、巴御前の兄、今井兼平と最後の戦いに打って出ました。木曽義仲の軍勢300騎は、源頼朝軍6.000騎の中を駆け抜けて最後の5騎の中に巴御前も残っていましたが、義仲から「自分の最後に、女連れでは末代までの恥となる。」と言って巴御前を逃しました。「源平盛衰記」には、其の最後の戦いに巴御前は3尺5寸の太刀と、真羽の矢を背負い、弓を持って5枚兜の緒を締めた巴御前は、突然兜をぬぎ、黒髪を後ろに打ち越し、額に天冠をあて、白打出の笠をかけて、眉目かたちの美しい女の姿になり、最後は女武者ではなくて、木曽義仲の妻として飾りたいとの思いでありました。其の騎上の巴御前の姿を見て、60人力と言はれた遠江の「内田三郎」は、巴御前を生け捕ろうと黒髪をつかみ、腰刀を抜きましたが、其の刀を拳で払い、素早く刀で首を切り取りました。其の首を軽々と掲げて、義仲に笑いかける血に、染まった巴御前の艶やかな顔に、敵の軍勢も足を止めました。だが、木曽義仲から「故郷に帰り自分の菩提を弔うと共に、最後を人々に語って欲しい」と命じられて、涙にくれながら巴御前は単騎、戦列から離れましたが、栗津ケ原にて31歳で木曽義仲は討ち死して、其の首は、六条河原に晒されました。木曽義仲と別れた巴御前の消息は、はっきりしませんが、大津の「義仲寺」(ぎちゅうじ)に美しい尼僧がいて、墓守をしていたとの伝えがあり、又、「義仲寺」には、「木曽義仲の墓」「巴塚」と共に、義仲の妾の「山吹御前」の供養塚もありました。画像はテリヤの雄で名はフリッツ。隣の家から庭伝いに毎朝現れて、朝の散歩を要求。!(^^)! PCの椅子を独占しています。   

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2008年2月 2日 (土)

近藤 勇。

Dscf0905 文久3年。京都の天誅騒ぎに頭を痛めていた幕府が、14代将軍家茂の上洛に先駆けて、江戸で浪士組を公募。近藤勇もこの浪士組参加を決めました。其の時。近藤勇「6番組小頭府内浪人30歳」と記載されています。他に「平士」として沖田総司。土方歳三。永倉新八。藤堂平助。等の名前がありますが、その後。武闘派として京都に残留して、近藤勇ら17人が会津藩預かりとなり、芹沢鴨との連携が決まりました。先ず「壬生浪士組」と名乗り、隊服を作る事になって、芹沢、近藤、土方ら7人で金策のために、大阪今橋の両替商・平野屋五兵衛方から金100両を、押し借りしましたが、其の折の「尽忠報国兵募のため、拙子ども国事周旋つかまっる。借用致し候」との借用証の写しが残っています。兎に角、この100両で、隊服と隊旗も調達出来ました。「壬生浪士組」も文久3年の政変に出動した時に「新選組」と名乗っています。其の後、文久3年9月の夜の事、八木源之丞の屋敷で寝ていた芹沢鴨は、近藤勇の意を受けた土方。沖田。を始めとする「天然理心流」の遣い手5人に、情婦のお梅と共に刺されて死んでいます。さて、「新選組」で有名な切り込みで身体を張った壮絶な闘いを見せたのは、池田屋事変でした。元冶元年6月5日、京都三条の旅籠池田屋に、集まっていた長州藩や熊本藩の浪士20数人を襲撃しましたが、彼らが池田屋の二階で話し合っていた時に、近藤勇はわずか10人の隊士を率いて、狭い階段を先頭で駆け上がりました。斬り込んだ隊士たちは、近藤勇の指示により、鎖帷子の武装をしていましたが、防具をつけていても二階の行灯の灯が吹き消された暗黒の部屋に、突入するのは決死の覚悟が要りました。「多勢を相手の戦闘に永倉の刀は折れ、沖田の刀も切っ先が折れて刀の刃切れはささらの如く」近藤勇も述べています。先頭に切り込む役を「死番」「新選組」では言う様でしたが、近藤勇の見せた「死番」は壮絶とも言える武士魂。この近藤勇の姿勢が「新選組」を幕府要人にも認知させて、慶応3年6月、幕府は「新選組」の召抱えを決定。近藤勇見回組支配頭格で、念願の旗本に成りました。其の後、近藤勇「甲陽鎮撫隊」を編成して甲州勝沼で、新政府軍と闘いましたが敗れて敗走しました。其れは数時間の戦闘だったと言はれています。近藤勇も4月3日に「大久保大和」として官軍の板橋総督府に出頭。取調べの後、最後は士分としての切腹も許されず罪人として斬首されて首級は、三条河原に晒されましたが、享年35歳でした。尚、東本願寺に遺体は引き取られて、近藤勇の墓があると言はれています。画像は、1月末に黄昏夫婦で、熱海観光の折りの熱海城。「熱海桜」の開花には早い季節でした。

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2007年12月22日 (土)

与謝野鉄幹と晶子。

Dscf0879 情熱の歌人と言はれた与謝野晶子は明治11年大阪堺市で堺女学校を卒業。日本文学の勉学に励み、源氏物語に親しみを覚えていましたが、明治34年に大阪に来た与謝野鉄幹の新体詩に感銘を受けて鉄幹主宰の「東京新詩社」に加わり、鉄幹と結婚の為に家を捨てて与謝野鉄幹と結ばれました。当時の鉄幹は「妻を娶らば才たけて、みめ麗しく情けある。」と歌い「ますらおの人」と言はれましたが、其の与謝野鉄幹も若く優れた弟子の晶子との恋に苦しみました。晶子も「なにとなく君に待たるるここちして、いでし花野の夕月夜かな」と、夢見る様な乙女心で歌っています。又、与謝野鉄幹新詩社「明星」での門下生として、白百合山川登美子白萩鳳晶子と言はれる程の二人は親友でしたが、只、登美子晶子は共に、鉄幹への思慕を寄せていました。其の登美子は「それとなく紅き花みな友にゆずり、そむきて泣きて忘れ草つむ」との歌を残し心ならずも、若狭に去って晶子鉄幹を、結ばせたと言はれています。「明星」で、若き歌人の晶子「みだれ髪」に収めた「やわ肌のあつき血潮に触れも見で、さびしからずや道を説く君」は、性を肯定した斬新さで文壇に衝撃を与え、多くの若者の共感を得ましたが、この時。鉄幹は妻子と別れ、若いと生活を共にして数ヶ月と言う、初々しいカップルでした。山川登美子は「紅き花みな友にゆずり」と身を引いて郷里で結婚。二年後に夫は病没。そして父まで失い野辺に棺を見送り、独り残された登美子は「我が棺守る人なく行く野辺の寂しさ見えつ霞たまびく」と冬の枯野での野辺送りの歌を残して、三十歳に満たない若さで結核の為。其の生涯を閉じましたが、薄幸の歌人。登美子が病没した時に鉄幹は「君なきか若狭の登美子しら玉のあたら君さえ砕けはつるか」と悲痛な歌を残しています。又、晶子は日露戦争の熱狂のなかで、女性として反戦を現した詩。「君死にたもうことなかれ」を明星に発表。「あ々弟ょ。君を泣く・・・親は刃をにぎらせて、人を殺せとおしえしや、人を殺して死ねよとて、二十四までそたてしゃ」と詩で反戦を叫びました。其の与謝野晶子も大正、昭和の動乱期を生き抜き昭和17年、鉄幹に遅れること7年、64歳で華やかな生涯を閉じましたが、多摩霊園の11区に墳墓があり、「今日も又、すぎし昔となりたらば、並びて寝ねん西の武蔵野」の詩の通りに、鉄幹と共に晶子の棺蓋には「皐月よし、野山の若草光みち、末も終わりもなき世のごとし」と刻まれています。与謝野晶子は11人の子を育て、妻として歌人としても、見事な良妻賢母ぶりを発揮しました。画像は「伊豆テディベア・ミユージアム」でテディベアと歴史的なテディガールの他。余りに可愛い雰囲気に思わずパチリ!(^^)!の一枚でした。
 

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2007年11月24日 (土)

忍城の甲斐姫。

Dscf0838 時代はまさに、豊臣の天下にならんとする時、秀吉軍を相手に女城主として、見事な采配をふるい、最後まで家を守り抜き、敗戦後は秀吉の側室と成つてまで、成田家を守つた姫。其の名を「甲斐姫」と言いますが、其の生涯は、戦国時代に産まれた、女性としての誇りの高さを物語るものでした。天下統一をめざす豊臣秀吉の軍が、小田原城を攻めようとしていましたが、北条氏の支城。忍城主成田氏長は、天正18年2月小田原城に籠城するための出陣で忙しい時に氏長には男子は居らず、只、長女で19歳になる「甲斐姫」は、東国無双の美女で、男に産まれていれば、天下に名を成して、家を興す器で、成田家中興の人となったものをと「成田記」には書かれています。父は「甲斐姫」忍城の守りを頼むと共に、虜になれば末代までの身の恥と戒め、輪宝の差物をはためかして、350騎を率いて小田原に向かいました。秀吉軍は20万の軍団で小田原城を包囲すると共に、関東の支城を攻略するが、石田三成。大谷吉隆ら23,000の軍勢が天正18年6月に忍城を囲みました。此れに対して忍城(埼玉県行田市)を守る侍は350人。足軽は450人程。其れと敵からの乱暴を避ける為に町人。百姓。僧侶らも呼び入れ女子供を含め3,000人程が難を避けていましたが、其の頃の忍城は沼と湿地帯で、小島を要塞化した浮城でありました。かき上げた土塁に木を植えて、目隠しにした留守部隊800人程の総大将・「甲斐姫」は城代・成田泰季(やすすえ)を支えとして、采配を振るい敵を城内に入れませんでした。あの手、此の手と、攻めあぐねた石田三成も援軍を得て攻めましたが、黒髪を烏帽子形の兜につつみ、小桜織の鎧。猩々緋陣羽織姿の「甲斐姫」が、金覆輪の鞍を付けた黒駒を操り、絶妙のタイミングで目隠しの木陰から撃って出て、成田家伝来の名刀「波斬」を腰に、手には銀の采配も凛々しい女城主の姿には、後に続く城兵も勇気を奮い立たせて姫と城を守るべく、死力を尽くして戦い真田軍の援軍にも忍城は落ちなかったのですが、善戦もむなしく、先に、小田原城が陥落して7月には、「甲斐姫」甲冑姿も美しく、馬に乗り侍女を従えて忍城を明け渡しました「甲斐姫」の武勇と其の美貌を聞きつけた秀吉は、現在の栃木県小山市辺りの陣に「甲斐姫」を召し出して、後に側室として大変に寵愛して、氏長の死後、成田家は領地没収と成るところですが、秀吉の側室となっても成田家の存続を秀吉に懇願。叔父・泰親に相続が許されました。只、其の為に尽力した「甲斐姫」は、限られた範囲の中で最後に成田家の存続の為には、美貌をも武器にすることも覚悟していた様でした。画像は検診で入院した、足立区西新井病院の西4病棟1410号室の可愛い「たれぱんだ」!(^^)!☆☆☆!(^^)!時速2.75m/nのサィンで、明るい病棟の看護師さん達を応援していました。
 

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2007年11月 2日 (金)

在原業平。

Dscf0813 紀貫之(きのつらゆき)は古今和歌集の仮名序について、和歌の名手として僧正遍昭。在原業平。文屋康秀。喜選法師。小野小町。大伴黒主の6人をあげていましたが、いわゆる六歌仙で、この中の第2番目にあげた在原業平(ありはらのなりひら)は、皇子阿保親王の、第5子近衛中将であったので、「在5中将」と呼ばれました。皇統の血筋でありましたが、風流の道に身を投じて、其の生涯は、在原業平の1代記風の歌物語「伊勢物語」として残された在原 業平は、眉目秀麗な美男子で、自由気儘な色好みと共に、人並み優れた和歌の才能を持つていて、好色と歌に逃避したと言はれていました。在原業平は、常人が触れる事の出来ない様な女性で、後の清和天皇の妃。二条の后。藤原高子(ふじはらたかいこ)が未だ18歳の姫君で、業平35歳の時に禁断の処女と言われて、5節(ごせち)の舞を舞った高子に惚れて、寝所に忍び、毎夜通って逢う瀬を楽しみました。やがて業平は、天皇の妃に成るための姫君を、横からつまみ食いしたと、厳しい叱責と宮廷人士の指弾にあって、「伊勢物語」で有名な章段の「東下りになります。業平も都に居られなくなって、暫くの間、東国に赴き、其の道中で綴った歌に、有名な「名にし負はば、いざ言問はむ都鳥。わが思う人はありやなしやと」と、恋しい藤原高を偲んで詠んだ歌もありました。都内墨田区には、言問橋業平橋の名と共に、業平の地名もありますが、震災や戦時中の東京空爆での、369,000発の焼夷弾の火災で焼失したのか?、其の記録は見当たりませんでした。後年。二条院に住んでいる高子を偲んで、業平が庭の梅に目をやり、月が傾くまで昔を思いつつ詠んだ「月やあらぬ、春や昔の春ならぬ、我が身ひとつはもとの身にして」(この月は昔の月と違うのか。この春は昔の春と違うのか。我が身だけは昔のままなのに、彼女だけがいないとは)と悲恋の身を歌っていましたが、紀貫之は、古今和歌集での業平の歌の事を「其の心あまりで言葉たらず、しぼめる花の色なくて、香りは残れる如し」と、評して奇抜な着想と大胆な言い回しが特色で、其の欠点が、長所と成っていると評価しましたが、在原業平も元慶4年5月28日56歳で没して、5月28日は、京都の菩提寺。西京区大原野。十輪寺で「業平忌」があり歌を詠み、京舞が奉納されて、11月23日には業平紅葉の天ぷらが振る舞われます。画像は、上野「忍不池」を散策の折りに、睡蓮の花の美しい姿に、「わが思う人はありやなしやと」?と、業平気取りで?レンズを合わせました。

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2007年10月 6日 (土)

土方歳三。

Dscf0764 土方歳三の実家は、可成りの裕福な農家と言はれています。土方歳三も家業の妙薬と言う「石田散薬」の行商に成って歩きますが、行商の際には剣術道具一式を携えて、行く先々で試合を申し入れて、腕を磨いたとの事でした。土方歳三「天然理心流」に正式に入門したのは、安政6年3月の25歳と言はれています。近藤勇ら「武衛館」の仲間と「浪士組」に加わって上洛する時には、薬屋の行商から武士に成ると言う興奮が、抑えきれない様でしたが、無名の土方歳三「浪士組」では芹沢鴨の6番組に入れられて編成表での扱いも近藤勇門人。浪人とあるだけでした。その後、芹沢、近藤らと京都に残留する事になって、近藤勇を盛り立てて「浪士組」の主導権を握り「武衛館グル-プ」の結束を固めて、強固な組織にして行きました。局長のポストも芹沢鴨、近藤勇となり、副長には、新見錦と土方蔵三。山南敬助が成りましたが、後に脱走して山南敬助が切腹。新見錦も祇園の「山緒」で詰め腹を切らされています。文久3年9月18日の深夜、八木源之丞邸で、芹沢鴨と腹心の平山五郎は土方歳三達の闇討ちによって葬られましたので、副長として残った土方歳三「新撰組」を動かしていました。さて、斬るか斬られるかの緊張した日々を過ごす隊士達を慰めたのは、矢張り花街の京女達でした。当時の京都の主な花街は島原と祇園でしたが、敷居の高い祇園より、庶民的な雰囲気の島原の方が「新撰組」の隊士には人気があった様でした。近藤勇土方歳三、山南敬助、永倉新八など主だった隊士達には、それぞれに馴染みの大夫が居ましたが、鬼の隊長と渾名された土方歳三「真黒い髪が、房々として目もぱっちりとした、役者の様な男」と一際目立った美男子だった事が語り伝えられ、京都島原の花君大夫。北野では、舞妓の君菊。大阪新町では、若鶴大夫。祇園では、若い芸妓に評判も良かったとの事でした。生涯に池田屋事件を始め、戊辰戦争。甲州勝沼の戦い。宇都宮城の戦い。会津戦争。函館戦争。と戦いに明け暮れた土方歳でしたが、時の幕府側としては、もっとも多くの修羅場と実戦に、立ち会った土方歳三にも終焉の時が来ました。明治2年5月11日未明。新政府軍が函館に総攻撃をかけましたが、陸軍奉行の土方歳三が、一本木関門で指揮を取っていた時、鉄砲を向けている敵陣に、死に場所を求めて悠然と馬を進めた土方歳三に、一発の銃弾が其の身体を撃ち抜き、35歳の生涯の幕を引きましたが、死に場所で武士の象徴である馬に乗っていた辺りが、土方歳三の男の美学であり、遺体は「五稜郭」に埋葬されたと言われますが、又、別の場所に安置されたとも言はれています。画像は、黄色い彼岸花ですが、壬生寺の「新撰組」とは縁の深い「壬生塚」には、近藤勇の胸像や芹沢鴨の墓の他、新撰組隊士11名が祀られていました。

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2007年9月 4日 (火)

北条政子。

Dscf0730_4 平治の乱に敗れた源頼朝の父・義朝は平清盛に殺されたが、頼朝自身も伊豆の「蛭ケ小島」に流されていました。源頼朝は、容貌が優美で顔も大きく、言語分明な好青年だったと言はれて、無骨な関東武士にはない、理知的なタィプだったことから、田舎娘たちの心を強く引きつけた様で又、頼朝の方も可成りの女好きで、女性と派手な交際をする様になり、其の中の一人が北条政子でありました。政子は伊豆の小豪族。北条時政の長女で4歳の時に、平治の乱に敗れた父・義朝の子である14歳の源頼朝が、北条政子の家から近い韮山の「蛭ケ小島」に流されていましたが、成人した政子は、親の目を盗んで頼朝と逢い、政子は密かに結ばれました。時代は平家の世の中なので、父・北条時政は驚き伊豆の実力者、山木判官兼隆と縁組みをして、政子を山木の家に送りました。政子は流人・頼朝を愛していたので、山木の家を脱出して、闇夜に迷い、深雨をついて伊豆山脈を越えて20㌔近い道を夜通し歩き続けて熱海・伊豆山権現で待つ頼朝の胸に飛び込みました。頼朝の妻に成った翌年に長女・大姫が産まれましたが、娘・政子の行動に怒った北条時政も、やがて頼朝の味方となって、石橋山で頼朝と共に戦いましたが合戦に敗れました。その後、頼朝は諸豪族の力を得て鎌倉に入り鎌倉幕府を設立しましたが、政子は鶴岡八幡宮の東に隣接する広大な屋敷で、寿永元年に長男・頼家を出産しました。只、頼朝の女好きは相変わらず治らず、「蛭ケ小島」時代から通じていた「亀の前」を、鎌倉に呼び出して妾にしていました。出産直後にこれを知った政子は腹を立て、鎌倉時代の記録に残る激しい夫婦喧嘩をしています。又、木曾義仲が敗れた時、長女・大姫の婚約者は、義仲の長男・木曾義高で、人質として鎌倉にいましたが、頼朝がこの義高を殺そうとしているのを知って、政子義高を逃がしますが結局、殺されました。しかし兄の様に慕っていた義高の死に、心を閉ざした大姫は20歳の若さで亡くなります。又、正治元年正月、落馬がもとで、頼朝も死ぬことになり、2代将軍に長男・頼家が成りましたが、政治も妻方の比企家の言いなりに成ったので、政子も母子の情をたち切り頼家を処分しました。その後、2男の実朝に託した鎌倉の未来も、長男・頼家の子で政子の孫でもある公暁(ぐぎょう)実朝が、鶴岡八幡宮の大銀杏の処で暗殺されて潰えた時には、政子の末娘の乙姫までも病気で失いました。晩年は尼将軍と呼ばれて鎌倉幕府の実権を握りますが、母として、妻としての北条政子を見ると不幸な女性で、元仁2年7月に政子は69歳の生涯を孤独の内に閉じました。画像の蓮の花の蓮の台(はすのうてな)は、極楽浄土の象徴と言はれて、仏教と縁が深く寺社の池などで、栽培されている事が多い花です。

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2007年8月 7日 (火)

八百屋お七。

Dscf0712 「八百屋お七」(やおやおしち)は江戸は本郷の八百屋の娘と言われています。当時の木造住宅中心の江戸での放火は、殺人罪より重い罪だったので、放火の事情はどうあれ、兎に角「八百屋お七」と言えば不届き至極と言う、レッテルが貼られて当時のマスコミにも扱われた訳ですが、マスコミの報道が一方的である事は、江戸時代も現代も余り変わらない様でした。天和2年12月深夜。駒込大園寺から出火した火災は本郷、日本橋から墨田川を越えて本所、深川にも及び、火災から逃れる人でごった返していました。此の時に生き延びた一家の中に本郷の八百屋八兵衛の家族が普段から付き合いの深かった旦那寺駒込の吉祥寺で難を避けた仮住まいの雑居生活の中で八兵衛の一人娘、お七の姿は桜の花の様美しく、冴えわたる夜半の月の様に清楚だつたと言はれていますが、其の寺の寺小姓であった吉三郎も、人目を引く程の美男子でした。程なく若い二人も忍ぶ仲となり夜更けて、お七吉三郎の寝所で、夜具に滑り込んで、其のままに楽しい恋をとげる事と成りました。やがて焼け跡にも家が建ち、二人は離ればなれになり、逢う事も儘成らず時は過ぎて行きました「火事さえあれば、又、愛しい吉三郎様に会える」と幼い恋の情熱から、ある風の強い夕暮れに、お七は付け火を思いつきましたが、火は燃え広がらずに、お七は捕らえられて天和3年3月に、鈴ケ森の刑場で「火あぶりの刑」に処せられました。其の時に市中を引き回され晒れるお七の美しさに、見る者は皆、哀れを禁じ得ませんでした。又、吉三郎お七恋さに病の床に伏して、お七の哀れな運命を知る事も叶わず、お七の刑死を知り自害するが果たせず、美童の前髪を落として出家する姿に、周囲は哀れを誘いました。尚、お七は、捕らえられた時にはまだ16歳に成ったばかりでしたので、其の可憐な姿に奉行も15歳ならば死刑には成らないので、お七は15歳だろうと何度も聞きましたが、お七は正直に16歳であると主張して刑に服しました。井原西鶴の処刑が終わった3年後の貞享(じょうきょう)3年に、お七を浮世草子「好色五人女」に登場させていますが、現在に残る菅専助「伊達娘恋緋鹿子」黙阿弥「松竹梅雪曙」の浄瑠璃では、お七吉三郎を救う為に火の見櫓で、半鐘を鳴らすのが恒例となっています。画像のの墓は白山の円乗寺ですが、歌舞伎の岩井半四郎が浅黄麻の葉鹿の子の衣装で演じた「其昔恋の江戸染」が女性の評判になり、公演の成功を祈って建立した供養塔があり、奉納織旗には板東玉三郎の名も載っていて、縁結びと火伏せの信仰がありました。其の為に、芸能関係や日本舞踊のお師匠さんと連れだって、若い娘さんの参拝が多いと言う事でした。 

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2007年7月 6日 (金)

新門辰五郎。

Dscf0272_1 最後の将軍と言はれた15代将軍「徳川慶喜」の墓が上野寛永寺に隣接する谷中霊園に有りますが、安政2年に「徳川慶喜」の正室の墓が寄り添う様に仲良く並んで建っています。其の裏手には小振りな墓が幾つか有りますが、これは側室たちの墓でありました。其の側室達の中でも一際目立つ美しさが評判と成っていたのは、江戸の火消し「新門辰五郎」の娘のお芳であったと言はれています。此の時代に庶民から徳川家の者と縁故を持ったのですから、側室の親「新門辰五郎」としても、張り切らざるを得ませんでした。慶応2年に「徳川慶喜」15代征夷大将軍に就任しましたが、将軍就任以前から大奥に嫌われていましたので、将軍に付く大奥の女性とは縁が無かった様でした。只、親子程の歳の違う「徳川慶喜」「新門辰五郎」とは、何故かお互いに気も合って、其の関係は良好でありました 「新門辰五郎」幡随院長兵衛花川戸の助六を有する浅草で、江戸時代後期に、大岡越前が定めた江戸町火消しの10組「を」組の町田家。火消頭取と成って、鳶職。香具師。侠客。浅草寺門番。等の者達を傘下に治めました。其の新門の姓は輪王寺新門を警護した事に由来すると言はれていますが、幕末から維新にかけて、3千人の子分を持つ大親分で、侠客の元締め的な存在となり「新門辰五郎」に依って吉原を始めとして、浅草観音様や奥山の辺りが侠客の本場に成ったとも言はれていました。元治元年に禁裏御守衛総督に任じられて 「徳川慶喜」が、京都に上洛すると「徳川慶喜」に呼ばれて子分300人を率いて上洛。2条城の警備などを務めていますが、その後、慶応3年の大政奉還で江戸幕府が消滅しました。尚、鳥羽伏見の戦いの後には「徳川慶喜」が大阪から江戸に逃れて、上野寛永寺に謹慎した折りには 「新門辰五郎」は寺の警護や特に上野の山の戦いでは、伽藍の防火に努め戦火を収めました。又 「徳川慶喜」が水戸から静岡と移り謹慎しましたが「新門辰五郎」もそれぞれの警務を努めて「徳川慶喜」と共に静岡に住んで、駿河の国清水の侠客である清水次郎長とも親交があったとも伝えられ、幕末の江戸城明け渡しでは勝海舟との繋がりも有りました。江戸浅草と言う繁華街で名を売った「新門辰五郎」も享年75歳で没後は講談。歌舞伎。小説では、特にテレビ番組の「暴れん坊将軍」大岡越前と共に登場する新門辰五のキャラクターに至る迄のフィクションの題材にされています。現在の4代目新門と成っている町田新五郎氏は、平成に至る現在でも、浅草寺の御用を努め其の勢力は浅草寺界隈に良く知られています。画像の観音様は何時も善男善女の参拝が多く、其の大提灯は雷門の大提灯と共に、浅草では皆に親しまれています。

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2007年6月 4日 (月)

坂本竜馬。

Dscf0624 幕末の風雲児・坂本竜馬 は、慶応2年1月23日に、坂本竜馬襲撃事件が寺田屋で起きた時には、間一髪、お龍に坂本竜馬と三吉慎蔵は危機を救はれています。お龍が刺客の気配に気ずき、2人を裏口から薩摩藩邸に逃がして危機を逃れました。この一件を境に、意気投合して逢う様になりましたが、それ以降の2人は夫婦になっています。その後、坂本竜馬西郷隆盛らと共に海路で鹿児島に行きますが、お龍も一諸に連れて行きました。その時に、坂本竜馬は長崎の亀山で「亀山社中」と言う結社の様な商社を作つて、イギリスから汽船ユニオン号を買って通商航海を始めています。此の時に第2次征長戦争の火ぶたが切られて、まさにタイミング良く商業航海で大活躍出来ました。その後に持ち船の衝突事件で、「亀山社中」も解散しましたが、坂本竜馬「薩摩と長州」の2藩を同盟させて、元治1年第一次征長の役では、総監参謀の西郷隆盛と幕府軍艦奉行の勝海舟を大阪で会見させました。此の席での会談では、勝海舟西郷隆盛の双方に大きな感銘を与えましたが、勝海舟が、西郷隆盛とはどんな人物か?と訊くと、此の時の坂本竜馬の答えが彼の有名な「西郷隆盛と言う人は底の知れない大鐘の様なもので、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。得体の知れない人物」と答えています。後に、東征軍大総監参謀西郷隆と、幕府軍艦奉行勝海舟との「江戸城明け渡し」会談の成功の陰にも、坂本竜馬の影響が多々ありました。その後、志半ばで、坂本竜馬が暗殺されたのは、明治維新を目前にした慶応3年11日15日の事で、幕府の大政奉還が実現して、坂本竜馬の「船中八策」の政治体制を確立させるべく、京都の下宿、近江屋で同卿の志士中岡慎太郎と、其の対策中に捕吏に急襲されて、刀を抜く間もなく斬られて絶命しました。さて、お龍との結婚では坂本竜馬は可成りモダンな男で、日本では初めての「新婚旅行」でお龍と温泉地に遊び、霧島山にも登っています。其のお龍も坂本龍馬が暗殺されてからは、再婚しても心の痛手は癒されず、明治39年66歳で亡くなっています。只、北辰一刀流の千葉道場で、千葉周作の姪の女剣士、千葉佐那との手合わせから、熱い恋の芽生えもあった様でした。その後、千葉佐那は東京千住で、家伝の鍼灸治療を始めていたと言はれて居ますが、坂本竜馬の為に独身を貫き、明治29年59歳で寂しく亡くなっています。遺骨は谷中の天王寺に埋葬されていました。画像の青空を元気に泳ぐ鯉のぼりは、日本の明治維新の夜明けを、駿馬の如く駆け抜けて逝った坂本竜馬の姿の様でした。

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2007年4月30日 (月)

袈裟御前と文覚。

Dscf0613_1 平安時代末・「袈裟御前」は、現在の大阪に本拠を置く武士、渡辺渡(わたる)の妻でした。保元2年に淀川(大川)に架かる渡辺橋の橋供養の日、警護に就いていた遠藤盛遠(もりとう)は、橋供養を見に来た袈裟御前を一目見るなり、同族の(わたる)の妻であったが、恋の虜に成って、激しい横恋慕をして、其の恋情は収まらず、激情を押し通そうとしました。其処で意を決した盛遠は叔母であり、袈裟の母であった衣川に、詰め寄り思いを遂げさせて呉れなければ、命をも奪うと脅します。血気盛んな17歳の若者の無知な要求に、哀れなのは袈裟御前でありました。盛遠に命乞いをした衣川は、娘の袈裟を呼び出して、命が掛かっているので、盛遠の言うとおりに成って呉れる様に頼みました。やむなく袈裟盛遠と一夜を共にするが、盛遠はもう袈裟を帰さないと言い放ったので、悩み抜いた末に袈裟は、盛遠に夫、を殺す様に頼みます。「家に帰り、夫の髪を洗い、酒を飲ませて眠らせるから、濡れた髪を探って、首を落としなさい。そうしたら貴方と一緒に成りましょう。」と約束しました。帰宅した袈裟は、夫を奥の居間に寝かせると自分の髪を洗って床に敷きました。そうとは知らず、闇にまぎれて忍び込んだ盛遠は、指示どおりに濡れた髪の首を切り落として、屋敷に駆け戻って首を改めた盛遠は絶叫。見れば袈裟の首ではないか!・・も朝目覚めてみれば、首の無い妻の亡骸・・のショツクも大きかったが、目の前に現れて混乱しきった従兄弟の盛遠の姿に憎みきれず、共に出家して袈裟を弔らい、後から衣川も出家して袈裟の菩提を弔ったと言う事でした。暴走する従兄弟を戒め、夫に操を立てるために、自らの命を犠牲にした袈裟御前武士の妻たる者の見事な心得と言はれています。遠藤盛遠も出家して、荒行と修行を重ねて、真言宗の僧。文覚となり荒廃しきった「神護寺」を再興するため後白河天皇に強訴して、渡辺党の源頼政の知行国であった、伊豆の国に流されますが、其処で同じく配流の身だった源頼朝と知り合い、平家打倒の挙兵を促しました。その後、鎌倉幕府の源頼朝や、後白河法皇の庇護を受けて各地の寺院を修復しましたが、頼朝が死去すると後白河天皇に疎まれて、佐渡の国に流罪となって客死しています。京都伏見区にある「恋塚寺」の寺伝に依ると、文覚上人が袈裟御前の菩提を弔う為に建てたと言はれ、境内には袈裟御前の首塚と伝えられる宝筺院塔があり「恋塚」と呼ばれていて、本堂脇の座敷には文覚上人袈裟御前渡辺渡。の木像が並んで安置されていますが、正保4年銘の「恋塚碑」の撰文も刻まれています。画像は、近くの西新井大師の「牡丹まっり」で撮った牡丹の花一輪ですが、花言葉は「恥じらい」又は「富貴」と言はれています。

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2007年4月 6日 (金)

西郷隆盛。

Dscf0583 戊辰戦争で「天皇親征の詔」の指揮は大総督参謀に西郷隆盛が任じられて、その先頭には「錦の御旗」が翻り、官軍は鼓笛隊と共に進撃。東征軍本体は駿府(静岡)まで進み、3月15日には「江戸城を総攻撃する」と言う事を決めました。その頃、箱根の関は幕府軍が固めて「戦うべき」「戦いは避けるべき」の議論に成りましたが、高橋泥舟将軍慶喜を説得して、上野寛永寺で謹慎「戦いは避ける」との考えで、勝海舟が交渉を任されました。勝海舟が考えた事は、江戸城総攻撃の前に、将軍慶喜の考えを西郷隆盛に伝える事で、其の役目を山岡鉄太郎(鉄舟)に任せました。山岡鉄舟は、剣の達人と言はれて大胆で、度胸も並はずれていた人でしたが、東海道には東征軍が溢れて駿府まで行くには、決死の覚悟が必要でした。其れでも東征軍に「何者か名を名乗れ」と咎められた時には「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎。大総督府にまかり通る」と大声で叫び、堂々と通り抜けたと言はれています。駿府に着き西郷隆盛に会った山岡鉄舟勝海舟の手紙を届けると共に「慶喜公は上野寛永寺で謹慎。其の慶喜公を討つのは、王道に外れる行為」と熱心に説きました。東征軍が江戸城総攻撃となったら江戸の町は、戦場と化して火災と共に、沢山の人々が命を落とした事でしょう。しかし山岡鉄舟の働きで、其の直前に西郷隆盛勝海舟の会談に依り、江戸城総攻撃は中止に成りました。此の時の西郷隆盛は敵将とは考えずに真摯な姿で、勝海舟との交渉に入りましたので、勝海舟は「西郷隆盛は私の言う事の全てを信用して呉れた。此れに依り江戸百万の市民が、其の生命財産を保つ事と徳川氏の滅亡もまのがれた。もし話相手が西郷隆盛で無かったら、談判は破裂したのではないか」と西郷隆盛に感謝しています。其の西郷隆盛の銅像は今でも「上野の西郷さん」と親しまれています。勝海舟は「臆病」だ、「恩知らず」と罵られても江戸城明け渡しの信念を変えませんでしたが、其の陰での高橋泥舟徳川慶喜。上野寛永寺で謹慎と、徳川氏存亡に対する幕府重役への説得がありました。その後、西郷隆盛も明治6年征韓論で大久保利通に敗れて鹿児島で、明治10年西南戦争となり田原坂の激戦後、城山も政府軍の総攻撃で、西郷隆盛も自刃して果てました。その後、此の時の事を伝えたある童歌があります。「せっせっせ」で始まる「手合わせ歌」で♪一掛け二掛けて三掛けて・・橋の欄干腰を掛け・・私は九州鹿児島の西郷隆盛娘です♪(西郷の娘。菊子)♪と城山で亡くなった西郷隆盛を偲んで、作者不明の此のお手玉歌が、広い地域で歌われて西郷隆盛を敬慕して居ました。画像は上野の西郷隆盛像ですが、江戸の町を戦乱から救った感謝の気持ちを現しています。尚、銅像の銘文には、幕末の三舟の功績も刻まれて居ました。                  

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2007年3月 5日 (月)

唐人お吉。

Dscf0449 嘉永6年6月に突如マシュー・ペリー提督と米国艦隊が来航出現して210余年に及ぶ、日本の鎖国政策に依る太平の眠りから起こされましたが、ペリー提督と艦隊が来航する事を知っていた幕府が何の対策も無く帰したので、嘉永7年1月に再び米国艦隊の来航で、鎖国政策の幕府に、艦隊と大砲を背景に「武力も辞さない」と言う政治的圧力を掛けました。当時の日本としては、見た事も無い最新鋭の黒船「蒸気船」が煙を吐く姿は、幕府にとっても驚きと恐怖だったに違いなく、直ちにペリー提督が「日米和親条約」を神奈川で締結後、タウンゼント・ハリス「通商条約」締結の為。浦賀に来ましたが、幕府はこれを拒み下田に上陸させ、玉泉寺を改修させて領事館としました。又、通訳のヘンリー・ヒュースケン下田芸者のお福を侍妾としましたが、姉芸者で当時、17歳のお吉を法外な年俸と引き換えに、ハリスの侍妾とする様に下田奉行に働きかけて、お吉はハリスの処に、奉公にあがる事と成りました。お吉はハリスの侍妾に成ると同時に、米国側の真意を知る手段として奉仕、日本側の交渉が有利に成る様に努力して居ました。其のため恋人鶴松にも裏切られ、「ラシャメン」(洋妾)と言われて町の指弾を受けていましたが、人種的な偏見だけでなくて、支度金25両年俸120両お吉が受け取る事に対する嫉妬と、外人との間に私生児が産まれる事を恐れて、当時の町の親達が取った行為とも言はれています「通商条約」締結後、ハリスも黒船艦隊と共に米国に帰りましたが、其の後お吉に対する世間の目は冷たく非情であり、母親船頭達からの汚れ物の洗濯や繕いの仕事も、お吉の家には少なくなって、網元の家での宴席に侍る仕事もめっきりと減り、当初はさほど生活に困る事も無く、給料も貰って居ましたが、周囲からたかられたり、自分たちも派手に使ったので、やがて生活も困窮して奉行所から30両の下賜金があり、此れが手切れ金となって、奉行所との縁も切れました。お吉も幕末。維新の動乱の最中、芸妓として流浪の果てに、下田にまい戻り、鶴松と共に髪結業を始めましたが、ほどなく離別。更に小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業して居ます「唐人お吉」と言う相変わらず、世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩して、明治24年3月27日の豪雨の夜下田川に身を投げて、波乱にみちた51年の悲しい生涯を絶ちましたが、遺体を引き取る処も無く、宝福寺住職「竹岡大乗師」が、如来観音の胸に抱かれた姉妹として墓に葬りました。その後、お吉自身の墓も作られて下田の「唐人お吉記念館」に其の生涯を語り伝えられています。画像は「胡蝶蘭」黄昏夫婦で伊豆下田観光の折り、お吉の写真が、当時の日本女性としては、瞳の大きな美貌の女性なので、ピンクの「胡蝶蘭」を載せましたが、花言葉は「あなたを愛します」と成っています。

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2007年2月 6日 (火)

新古今和歌集。

Dscf0343 「新古今和歌集」後鳥羽院が、選者に命じて選ばせた優れた和歌を、更に選び直すと言う念を入れた編集をした歌集であります。全20巻でおよそ2千首の歌が収められていますが、歌集の巻頭を飾るのは、藤原良経(ふじはらよしつね)の春の歌。「み吉野は、山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり」吉野は山も霞んで、ついきのうまで雪のあった里、遠いむかし離宮のあった里だが、其の里にも春が来たのだ。」と歌っています「新古今和歌集」で最高の歌数を誇るのは西行法師で、自然を旅する歌人らしく、人間味溢れる歌が沢山選ばれています。また、この歌集に大変な情熱を示した後鳥羽院、「のびやかに見わたせば、山もと霞む水無瀬川(みなせかわ)。夕べは秋と何思いけん」山のふもとに霞む水無瀬川のながめは素晴らしい。夕方の眺めは秋に限るなどと、どうして思い込んでいたのだろう。と歌っています。まず「新古今和歌集」の編集するにあたって選者として、・源道具(みなもとみちとも)・藤原有家(ふじはらありいえ)・藤原定家(ふじはらてぃか)・藤原家隆(ふじはらいえたか)・藤原雅経(ふじはらまさつね)・の5人が指名され、彼らは歌人の身分を問わず、優れた歌を公平に選びだしました。後鳥羽院はそれらの歌にことごとく目を通して改めて自分で選びなおしましたが、其の作業では後鳥羽院は、選ばれた歌の全てを暗記したと言はれています。また「新古今和歌集」に選ばれた歌人の総数は、作者不明の詠み人知らずの歌をのぞいて、約396人と言う数に成っています。このなかで、最多の歌数を誇るのが、西行法師で、94首が選ばれていて、続いて慈円の92首、藤原良経、(よしつね)79首、藤原俊成(しゅんせい)72首、式子内親王(しょくしなぃしんのう)の49首、藤原定家(ていか)46首、藤原家隆(いえたか)43首、寂蓮(じゃくれん)35首、後鳥羽院(ごとばいん)33首、紀貫之(きのつらゆき)32首という順番で、これらが主な歌数と作者であります。此の「新古今和歌集」が編集されたのは、源平の戦いが終わり、源 頼朝が全国統一を果たして、鎌倉武家政権を建てた頃でありました。後鳥羽院はこの歌集が出来た後に、鎌倉幕府を倒そうとして、承久の乱を興したが、敗れて隠岐に流されて幽閉されています。画像の、上野「国立西洋美術館」の野外に展示されている「地獄門」は、オーギュスト・ロダンが1880年。フランス政府から「パリの新しい美術館の門を作って欲しい」と依頼されて、ロダンの心をとらえたのは、ルネッサンス期の詩人ダンテ「神曲」に描かれた「地獄の世界」の物語。其れをモチーフにしたものでありました「地獄門」では地獄に落ちた約200体の亡霊を現していますが、其の上段の「考える人」は地獄の光景を表現しています。

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2007年2月 3日 (土)

ロダンの「考える人」

Dscf0340 黄昏夫婦で、上野国立西洋美術館に「ベルギー王立美術展」を見に行きました。ベルギー王国が世界に誇る美術館は1801年に設立されてから、200年以上の歴史を持つと言はれています。1600年代のヤコブ・ヨルダーンスの「飲む王様」と、ビーテル・パウルルーペンスの「聖ペネディクトゥスの奇跡」を始めとして、1800年後半のフェルナン・クノップフ「ジェルメール・ヴィナーの肖像」ジェームズ・アンソールの「燻製ニシンを奪い合う骸骨たち」のオールドマスターの素晴らしいベルギー美術の粋を集めて開催された、名画の数々に魅了された時間と空間を持てました。さて、国立西洋美術館には彫刻家オーギスト・ロダン「地獄門」「カレーの市民」と共に、有名な「考える人」が展示されていますが、画像のこの作品は最初から一体の独立した作品では無くて、ロダンが、40歳から制作を始めて、37年間を費やして組み上げた「地獄門」の一部でロダンは長い年月。自分が体験し考えた、さまざまな罪や苦悩をこの門に刻みました「地獄門」の制作に入った頃に、ロダンは一人の女性と出会いましたが、其れは19歳の若く美しいカミーユ・クローデルで彫刻家を志していました。クローデルの才能を認めたロダンも彼女を「地獄門」の制作の助手としましたが、当時、ロダンには長年連れ添った内縁の妻がいました。彼は親子程も歳の離れたクローデルに強くひかれてゆき、そして、二人で過ごす為の共同のアトリエを借りて新しい生活を始めました。二人が共同生活を営んだ年「フランス芸術家協会」のサロンで1905年に、カミーユ・クローデル「シャクンタラーと言う作品が、高い評価を得ましたが、ロダンと暮らす日々でクローデルは、自分を抱き留めて欲しいと言う願いは、叶わないものと気づきました。一方、ロダンクローデルと過ごしている間にも、内縁の妻に手紙を送り「愛する本当の友は貴女だけ」と綴っていたので、恋人の心が自分にない事を知ったクローデル「熟年」(分別盛り)と言う作品で捨てられた自分の哀れな姿を突き放して見つめて、過去の自分と決別しょうと、ロダンに別れを告げましたが、ロダンのもとを去ったクローデルは、その後、精神病を患い、二度と社会に出る事も無く、寂しくこの世を去りました。一方、ロダンは心の痛みを振り払う様に「地獄門」の制作に没頭して行きましたが、何時までも完成しない作品に依頼主の政府からキャンセルされ、ロダンは行き場の無くなった「地獄門」を、自らの為に人生の日記として彫り続け、1917年、ロダンは77歳で生涯を閉じました。其れは「地獄門」を組み上げた直後の事と言はれています。

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2007年1月11日 (木)

大村益次郎と楠本イネ。

Dscf0250_1 さて、「大村益次郎とシーボルトの娘・楠本イネ。」此の二人は、どちらも近代日本の魁となった人物でありました。大村益次郎(おおむらますじろう)「近代軍制」を整えた男であり、楠本(くすもと)イネは日本初の女「蘭方医」と成っています。益次郎は堅物と言はれて、靖国神社には、彼の銅像が建っていますが、若い頃の益次郎は、「村田蔵六」(むらたぞうろく)と言う名前で「緒方洪庵」の「適塾」で蘭学を学んで塾頭を勤める秀才でありました。一方のイネは、文政10年、「長崎オランダ商館」の医師・シーボルトと、遊女其扇(そのぎ)の楠本タキとの間に、赤毛で色白の彫りの深い、顔立ちの女の子として産まれましたが、シーボルト事件で父が追放になり、其の弟子の医師「二宮敬作」に預けられて、幼少を過ごし、医学に興味を持って医師を志しました。其の後、二宮敬作の紹介で、シーボルトの弟子で、岡山の産科医「石井宗謙」のもとで、産科について学びましたが、彼女は此処で宗庵に手込めにされて、女の子タカを宿し嘉永4年に長崎の実家に戻り、医師「阿部善庵」に学ぶと共に、長崎・出島では、オランダ軍医「ポンペ」の教えも受けています。当時の国内で最新の知識を身に付けて、東京で開業。日本初の女性蘭学医、産科女医となり、宮内省御用係となつています。さて、二人が出会うのは、益次郎が宇和島藩主・「伊達宗城」だてむねなり)から軍艦建造の依頼をうけて、長崎に赴き、其の時にイネ「適塾」で名の知られた蔵六こと、益次郎に教えを請う為に宇和島に行きましたが、やがて近くに借家して、藩の仕事を終えた益次郎に、深夜まで講義を一人で受けていました。益次郎は、この時、単身赴任でしたが、此処での生活は師弟以上の強い絆を育んでいった様でした。大村益次郎は、長州と江戸で軍務に没頭。イネは出島で軍医「ポンペ」に師事。此の間二人はまったく交流は無く、再会するのは、益次郎が京都で刺客に襲われて、重傷の床にあった明治2年の事でした。イネはその報を聞きつけて寝食を忘れて看病にあたりましたが、其の甲斐もむなしく益次郎は、46歳で此の世を去りました。此の時はイネが最後を看取っています。その後、彼女は明治36年。77歳で没しましたが、終生結婚する事はなく、益次郎への想いを抱き続けていたのでしょう。ドラマにもなった司馬遼太郎の「花神」には、二人の男女の関係が描かれていますが、二人の人生に淡い色彩が彩られた出会いでした。画像は、近くの韓国料理店の朝鮮王朝での民族衣装のお人形ですが、韓国最後の王朝である「朝鮮」の宮中料理は、韓国伝統料理の最高峰と言はれて、其の宮中料理は、韓国の各地から献上された最高の食材が使われ、韓国で最高の料理を集めて作られていました。宮中料理はまさに「究極」の2文字に相応した味で韓国料理=辛い」と言ったイメージが吹っ飛んでしまう程、上品な味付けと繊細な技が生かされた極上の料理が味わえます。

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2007年1月 7日 (日)

五節の舞。

Dscf0064 おめでとう御座います。!(^^)! この処、地球温暖化の為か、都心も風の穏やかな日が続きましたが、歳の市の頃から、吹く風も樋口一葉の「大つぐもり」(大晦日)で書かれている様な、師走の北風の寒さには驚きました。最近の初詣りをインターネットで検索すると、それぞれの神社やお寺のホームページから、携帯電話やネットでの初詣り参拝も出来て、其の神社やお寺では「祈願のお守」「お札」「縁結びのお札」も販売している処もある様です。特に「安産」で有名な関西の某神社のホームページを開き,ネット記帳の欄にお願い事を記入して「私のお願い」をクリックすると、其の神社にメールが送信されてお守り」や「お札」が購入出来るとの事。これには全国8万ヶ所の神社を管理している「神社本庁」でも「ネット」の参拝の御利益は認められない(^^;)と、自粛を求めている様ですがそんな事にはお構いなしで、お正月の髪を結い、晴れ着で着飾つた仲間と初詣りに集まったギャル達は、除夜の煩悩?の鐘の音も終わったら早速「明けましておめでとう」!(^^)!の声と共に、一斉に携帯の画面を開いています。其処には「アケオメ!(^^)!」「コトヨロ(*_*)」のメールが、ピースサィン(^_^)vの写真付きで写って友達同志でワイワイと騒いでいました。さて、五節(ごせち)の舞と言うのは、毎年11月の中の丑の日「新嘗祭」の豊明節会(とよのあかりせっえ)に行われる可憐な童女の舞いで、公卿の家の未婚の女性を選んで舞わせます。稲は縄文時代から栽培されていると言はれ、黄金の波うつ稲田の風景は、日本ならではの秋の取り入れの風物詩でありますが、稲の語源は「命の根」とか「飯根」が語源と言はれて居ます。其の「新嘗祭」豊明節会で舞う「五節」の舞姫を見て、僧正遍昭は「あまつ風、雲の通い路ふきとじょ、乙女の姿しばしとどめむ」《空吹く風よ、あの美しい天女が空より下がってきた雲の中の、あの通路を吹き閉じておくれ、そうすれば美しい天女が天に帰って行く事が出来ずに、其の美しい舞い姿を、もうすこし地上に留めておいて見ていたいと思うので、》と美しい舞姫たちの舞い姿に魅せられて、名残を惜しむ心を美しく巧みに詠っています。画像は、某スーパー屋上遊園地のキティちゃん乗り物。去年の秋に、三越日本橋本店のキティのイベント「さんりおin江戸」で、キティデザィンの米フェンダー社製の高級ギターが、一本。250万円で開店と同時に売れて、此の他、1,000万円のダィヤモンド付きの「キティ人形」も即売の状態になり、この異常なキャラクターグッツ人気に、玩具業界では「復刻ブーム」も熱を帯びて来ているので、伊藤忠商事とサンリオは、タレントの酒井法子がプロデュースする「ノリプー」も53億円の売り上げと共に「ハローキティ」のコラボレーション商品の販売を、展開すると発表して人気を呼んでいました。

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2006年12月 9日 (土)

楠木正成。

Dscf0232 「楠木正成。笠置山の戦い。」鎌倉時代末期から、南北朝時代にかけての武将、楠木正成(くすのきまさしげ)の古戦場に入る行程に、大阪の富田林から国道で千早赤坂に入ると、小高い丘陵が続き其の一角に古びた墓地がありますが、おびただしい墓石の中に、「寄手塚」「味方塚」と言う鎌倉時代後期に、造られたと言はれる二つの五輪塔が立っています。鎌倉後期で、南北朝に至る混乱期であった元徳3年8月。京を追われた後醍醐天皇は、木津川に近い笠置山(かさぎやま)に陣を置きましたが、其の時に千早から楠木正成が駆けつけました。正成は千早に縄張りを持つ独立武士団であって、正成が千早城など3ケ処の山城で、幕府軍との間だでの激しく繰り広げられた籠城戦やゲリラ戦で、楠木正成の名が戦史に登場するのは、此の頃からであると言はれています。歴史の記録も含めて其れ以前の正成の行状は余り解りませんでしたが、此の戦いに依って多くの死者が出ましたので、幕府側の死者を弔う為に「寄手塚」が造られて、正成側の死者の為に「味方塚」も造られ、懇ろに弔なはれました。此れには異説もありますが、正成が両方の死者の為に造ったと言はれています。二つの五輪塔の前に立つと「寄手塚」大人の背丈程。(1,8メートル)もあるのに対して「味方塚」子供の背丈程しか無く、敵方の塚の方が大きくて立派でありましたが、此の精神は驚嘆に値しました。然し、剥き出しの憎悪を抱いて激越に戦っても、非命に倒れた者は、敵も味方も同じであり、寧ろ敵だからこそ、依り多く讃えると言う古来の日本的な精神論は、間違いなく鎌倉後期に完成されたと言はれています。其の楠木正成も、延元元年。新田義貞の麾下での出陣を命じられて、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍との戦いに破れて、弟の正季と差し違えたと言はれています。 尚、南朝寄りの古典「太平記」には、正成の事跡が強調されて書かれていますが、彼の息子であって小楠公と言はれた楠木正行(まさつら)も父正成と同じく南朝方について戦いました。 四条畷の戦いでは、出陣前、吉野の如意輪堂の壁板に記した「梓弓」の歌は「かえらじとかねて思へば梓弓、なき数にいる名をとどむる」(生きては還るまいと、予め決心したからには、鬼籍に入る我が名を、此処に書き留めるのである。)との名高い歌と言はれています。尚、大阪府富田林市にある臨済寺、宗妙寺派の楠木家の菩提寺。香華寺では楠木正行。正時と共に一族郎党の菩提を弔ってあります。さて、秋葉原は、歌舞伎町や銀座と違った情報発信基地として、世界的に有名な街です。画像は、モニターマンとして商品の宣伝と共に、市場リサーチをしている女装?の男性ですが、大正モダニズム?モドキのメィドギャルのアキバでは、違和感も余り感じない摩訶不思議な空間でした。

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2006年12月 8日 (金)

龍田姫。

Dscf0317 「月々に月見る月は多けれど、月見る月は此の月の月」と言う名歌がありますが、其れは「仲秋の名月」旧暦8月15日)の十五夜にほかなりません。其の夜は縁側や庭先に月見の台を置きススキを飾ったり、団子や柿。栗。里芋。枝豆などを飾つて月見を楽しみました。この頃は里芋の収穫期でもあったので、別名「芋名月」とも言われていましたが、特に西南地方の日本の農村では、十五夜には稲の収穫祝いも重ねていました。稲の収穫も終わって、収穫祭りも過ぎると本格的な秋も深まり、冷たい風に乗って秋を司るとされる女神。「龍田姫」が訪れます。「龍田姫」は平城京の西に鎮座する龍田大社の祭神で、西の方角は易学で秋に当たる事から、秋の神と言はれています。「龍田姫手向くる神のあればこそ 秋の木の葉の幣(ぬさ)と散るらめ」、「兼覧王」(かねみのおおきみ)も秋の情景を歌っていますが、この歌の解釈は、「龍田姫と言う手向ける神があればこそ、秋の木の葉が幣(神に捧げる紙または絹)の様に散っている」。と歌っています。いずれにしても、神に手向ける様に、色づいた木の葉が、次から次ぎへと、紅く染まって散っていく秋の情景を描きだしています。「龍田姫」が其の美しい着物の裾を引きながら、それぞれの山を通り過ぎて行くと、其の後の木々がとたんに色づいていく様な、刻一刻と姿を変える秋の風景が、目に浮かびますが、「龍田姫」と言えば、竹下夢二の描いた美人画にも「立田姫」と言う紅葉を思わせる深紅の着物をまとった女性が、袖を広げて夢見る様に、目を閉じて立つている不思議な構図の絵がありました。京都で真っ赤な紅葉が、美しいと言はれた洛西の光明寺の「仲秋の名月」も有名ですが、村里でも月見での「団子突き」童子に団子を盗まれるのは、童子は神の使いであり、団子が無くなったのは神様が召しあがったので、お願いごとが叶うと喜びましたが、昔は村里の童子達もそうした行事の端々に参加していました。さて画像は、11月22日に西新井大師境内で、上杉香緒里小桜舞子。両人のキャンペーンがあり、控えの小桜舞子にはいささか強引なレポにも、穏やかな声でコメントを貰つたが、清楚で可愛い娘姿のムードも最高でした。12月からは師走に入り、今年最後の追い込みに頑張ります。とのコメントと共に、「小桜舞子のさくらむすび☆!(^^)!のオフシャルブログには11月22日のお大師様での3回のキャンペーンはお天気に恵まれ、お客さんも多くて「浜あざみ」も完売出来ました。西新井では人情味に溢れる暖かい方々からの多大な応援を頂きましたが、西新井の皆様。本当に有難う御座いました。今後共に「浜あざみ」「つゆ草の雨」をよろしくお願いし致します。とのコメントがありました。

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2006年11月17日 (金)

槍一筋の高橋泥舟。

Dscf0307 「高橋泥舟」でいしゅう)とは、勝海舟、山岡鉄舟と並んで、「幕末の三舟」と言われた人物で、山岡鉄舟の義兄と言われた其の男は、天保六年生まれの幕臣であり、名は精一と名乗り海舟や鉄舟の様に維新史の上では、派手に活躍しなかったが、なかなかの傑物と言われていました。彼は能書家であると同じに、槍の名手としても名を挙げていて、幕府講武所の教授を務めていました。講武所は、列国軍隊の近代的装備を知った幕府が、旗本やご家人達の武術訓練の為に設けた施設で、泥舟の他に勝海舟、男谷精一郎、高島秋帆などの人達も教授に成っていましたが、刻すでに江戸の世情悪化はさらに進み、文久三年には、江戸警備の「新徴組」が組織されて志士と言はれた、其の時代を、駿馬の如く駆け抜けた清河八郎の立案で「浪士組」を結成して、将軍家茂の警備をすると言う名目で上洛同行しますが、上洛中の将軍家茂より「伊勢守」として、泥舟は浪士取扱に任じられて統率者と成っていました。只「浪士組」は腕に自慢の浪人を集めたもので、隊士の中には攘夷を名目に乱暴を働くものも多かったので、清河八郎の攘夷の回天策に不安を抱いた幕府から清河八郎と懇意だった為に、其の責任を問はれて職を辞しました。泥舟宅を訪れた清河八郎も、帰路に金子与三郎の手配した駕籠に乗って出掛けて、佐々木只三郎に暗殺されて仕舞いました。やがて、泥舟講武所師範に復帰して、慶応二年に新設の「遊撃隊」の頭取となるが、鳥羽伏見の戦いを経て幕府も崩壊への歩みを速めて行きましたが、此処で、其の時代を見る目のあった泥舟の真価が発揮されました。泥舟は西郷隆盛に義弟の山岡鉄舟を会わせてると共に、泥舟最後の将軍。徳川慶喜に恭順謹慎を説いて江戸城明け渡し後は、駿府派遣を提案するなど局面の打開に心を砕き、廃藩置県後では徳川家が静岡に移住するのに従い、先ず寛永寺謹慎から水戸へ退却する徳川慶喜に付き添った後は、東京に隠棲して書を楽しみ維新後の泥舟は、世に出る事もなく明治三十六年に六十九歳で亡くなっています。泥舟は最後まで幕臣としての節を守り通して、其の後は表には出ない生涯でした。尚、勝海舟は晩年に「あれは大馬鹿だょ物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守に成った男だ。あんな馬鹿は最近見られないね。」と損得を考えないで、槍一筋。節義一筋。に生きた高橋泥舟勝海舟流で、賞賛していました。さて、伊豆伊東「和楽荘」に黄昏夫婦でお世話になりました。楽しみは勿論デナータイムです。画像のチーフと共に、サポートの女性と、ベテランの女性スタッフによる、配膳気配りの流れる様な手練れの演出が、演奏でいえば、パッセーションでの色々なフレーズの料理の配膳に変わり、次ぎは何の料理なのかと、まさに、デナーショーの雰囲気が楽しめました。先ず、スタッフ皆様の明るい声と、気持ちの良い挨拶が、最高の雰囲気を醸し出していましたご馳走様でした。
 

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2006年11月 7日 (火)

蛍火の歌。.

Dscf0239 寝苦しい夏の夜。涼しいメルヘンを運んでくれるホタルは、幾つもの名作を誕生させて呉れました。紫式部の名作「源氏物語」に、主人公の光源氏がホタルを放って、美女、玉鬘(たまかずら)を一層美しく照らしたと言う表現がありますが、「源氏ホタル」の名は、此の物語から始まったと言われています。又、「源平合戦」で源氏が平家を破ったので、大きい方を、「源氏ホタル」・・小さい方を「平家ホタル」・・と呼ぶ様になったとも言はれています。・・・玉梓(たまずさ)の使いの言へば蛍なす、ほのかに聞きて大地(おほつち)を災と踏み・・・「今月こそは、あのお方がお帰りに成るだろうと、大船に乗ったつもりで待って居ましたのに・・・彼のお方は散る紅葉の様に亡くなってしまわれました☆と使いの者から、ほんのちらっと蛍火の様に聞いただけで、思わず炎でも踏んずける様に、大地に地団駄踏んで、立ったり座ったりして途方にくれて・・・」どうにも押さえられない悲しみと怒り、溜息をつき、涙も涸れて、やがて途方に暮れて佇む女房・・・勤めを終えて僻地から帰ってくるはずの、夫を待っていた防人の妻の悲しい歌でしたが、「陸上自衛隊」も、イラク・サマワから蛍火の悲しさも無く無事帰還出来ました。蛍火とは美しく優雅な響きの言葉ですが、何処か切ない。ホタルは火垂の他、星垂や火照りとも言はれていますが、いずれの説も興味深い言葉であります。画像は、秋葉原の「アキバマップ」で有名な!(^^)!、店で等身大のフィギュアが、ガラス張りの箱に収まって、「アキバなら大丈夫。あなたと一緒ならきっと会ったことのないはずの人でも・・」と萌えの瞳でヲタクの若者(敢えてヲタクと書きます。)に囁いています。アキバのヲタク族の若者は、生身の女の子より、深く狭い自分だけの趣味の世界で、美少女アニメに集中して「ネットカフェ・オンライン」「バイナリィ・スポット」の両方の仮想と夢幻の空間で、コスプレアイドルや、美少女アニメのフィギュアの彼女達と、自分の世界で楽しみながら遊んでいます。若者に人気のあるポピーやビデオCD。オンラィンゲーム系の「イエローサブマリン」又、マニアックな若者が好むフィギュアの「とらのあな」系。その他、格闘技のキャラクターゲームでは、一見マニアックに感じる迷彩服の若者も、戦争と縁のないオンラィンゲームの世界で遊ぶ大人しくて?、真面目な?ヲタク族の若者が多いと言はれています。ブクロ(池袋)の女性オタクが集まる「乙女ロード」と並んで、若者の街として、新しいジャンル?のフアンタジックな次元と空間の世界で、今後のアキバもインフラと環境も含めて、流行っていく街に成るでしょう。

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2006年10月13日 (金)

鷹山とお豊の方。

Dscf0192 かって戦国の名将・上杉謙信を出して、関東管領の名跡を継いだ武門の名家も、会津120万石を領有していたが、関ケ原の戦いで徳川家康の不興をかって、30万石に削減されました。処が4代藩主綱勝が、後嗣を定めずに急逝しましたので、本来、お家断絶の処、石高半分の15万石で何とか存続を許されましたが、此の領地の削減に対して家臣の整理をしなかったので、経済逼迫となり、奈落に転落する事と成りました。8代藩主重定(しげさだ)はついに、領地を幕府に返上すべく「藩籍奉還」を決意した程でありましたが、茫然自失の重定はすでに藩政を総攬する気力が失せていました。其処で全ては養子の9代上杉治憲(はるのり)号して鷹山(ようざん)に託されました。鷹山が家督を継いだのは、明和4年4月のことで、歳は17歳。其れから2年後に、鷹山の正室に2歳年下の重定の1人娘・幸姫(よしひめ)が決まりましたが、幸姫は残念ながら心身の発育が異常で、17歳の時点で10歳にも満たない幼女同然の身体でありました。鷹山はこの妻に対して苦悩しながら江戸にある間は、ひな飾りや玩具遊びの相手を務めて懸命に愛情を捧げましたが、其の思いも何処まで通じたか?、定かではありませんでした。其の幸姫も天明2年に30歳で病没しています。鷹山幸姫を憐れみ、江戸には側室を置いていませんが、しかし大名は子を成さねばお家断絶と言う定めがあり、国元の米沢に帰った翌年(明和7年)式部勝延の姫。お豊を側室に迎えました。ときに鷹山は20歳。お豊は30歳と言はれています。お豊の方は、歌道をたしなみ、教養も高く麗之(れいし)の号を持っていて、学問好きの鷹山のよきパートナーシップを発揮して、慢性的な藩財政赤字の節減と、家臣の整理・人員削減に務めた鷹山の至難と言はれた藩政改革を、精神的に助けて見事に成し遂げさせました。「成せば成る。成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」との格言は余りにも有名です。鷹山お豊の方の嫡子も江戸に勤学中に早逝。其の分、養子・治広や其の6人の娘の教導に励み、お豊の方鷹山の再建事業を見届けた様に、鷹山の逝去する前年の文政5年。81歳で此の世を去りました。米国のケネディ大統領も日本で尊敬する政治家に、上杉鷹山を挙げていたのは有名な話と成っています。 画像の金竜山浅草寺は、伝法院と号して天台宗、東叡山に属しますが、推古天皇の時代に墨田川で網に掛かった観世音菩薩像を安置したのが、始まりと言はれ信者からは、浅草の観音様と慕われて、其の御利益も「家内安全」「商売繁盛」「心願成就」「厄よけ」「交通安全」と幅広い願いが叶うとの事で参詣の人が絶えません。

 

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2006年10月 6日 (金)

大化の改新。

Dscf0213 奈良、明日香村川原の甘樫丘(あまかしのおか)東麓の発掘現場で「大化の改新」(645年)で暗殺された「蘇我入鹿」そがのいるか)の邸宅跡の可能性が高い建築跡が見つかり、考古学ファンが古代ロマンに思いをはせましたが、「日本書紀」(720年)での、「大化の改新」を否定する見解もあり、歴史研究者の間で議論を呼びました。又、書かれている「日本書紀」での中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )らの蘇我入鹿の暗殺事件は、まことに細かく描かれていると言はれています。二人の刺客を忍ばせるが、なか々切りかかれないので、入鹿も気づき。其処で中大兄皇子が、入鹿の頭や肩を斬りつけて、最後に首を刎ねた事になっています。只、事件の舞台となった飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の実体が解らない事で、昔から飛鳥川の東に其の跡があったと言はれていました。其の場所の遺跡を調べると、天武天皇飛鳥浄御原宮の跡と解りましたが、其の「謎の宮殿」の一部が、浄御原宮の発掘現場の下層から石を敷き溝や柱の跡らしき物も見つかり、浄御原宮。以前の宮跡の板蓋宮の跡ではないかと言はれて、中大兄皇子天智天皇に即位後、改革を進める為に宮殿を飛鳥から琵琶湖の大津に移したので、板蓋宮も廃墟となって、弟の天武天皇が再び飛鳥に戻った事で、板蓋宮の跡に新たな宮殿を造った。つまり宮殿の下にもう一つの宮殿の跡が眠っているのでは無いか?と言う「大化改新」のロマンの中で、「額田王」と天智。天武の両帝とのロマンスが、混乱の時代の板蓋宮の跡の謎と共に描かれています。画像は「雷門」ですが、「金龍山浅草寺」浅草の観音様と親しまれて江戸情緒を残しています。観音様に至る仲見世の入り口の「雷門」は、数度の火災に依る消失がありましたが、寛永12年徳川家光に依って建てられ「雷門」と呼ばれました。慶応元年の火災で何と95年間は「雷門」も幻の存在と言はれましたが、其の後、仲見世の入り口に、右に「風神」。左に「雷神」を安置した門「雷門」として寄進されて、大きな提灯が「雷門」と書かれ門の通路に吊り下げられて、門を通る人々の評判に成っています。

 

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2006年9月21日 (木)

彼岸花

Dscf0169 さて、六歌仙の一人と言われている文屋康秀(ぶんやのやすひで)の歌で、「吹くからに秋の草木のしをるれば、むべ山風をといふらむ」・・山風と言う二つの漢字を合わせると、「嵐」と言う文字に成ります。そういう文字の遊びがあった事を頭に置いて、此の歌を読んで見ますと、《吹いて来ただけで、美しく紅葉した秋の風景も冬枯れの姿に変わる山の風を、と昔から言っているが山の風が吹くと、其の風につられて、そのまますぐに、もまれて涸れてしおれて仕舞うので、それから山の風をと呼ぶのだろう》と歌って、古今集巻五、秋歌下の歌合わせの歌として、其の歌詞の通りに山風の二字の合成に依り、の字になると言う、文字や言葉の知的な遊びの歌でありましたが、当時の好みを良く表して、其れでいながらさらりとした調子の、平易な歌になっています。理屈はともかくとして、風の吹きすさぶ光景が良く感じられる六歌仙文屋康秀の代表的な歌となっています。画像の彼岸花は、誰に時を告げて貰うのか、秋の彼岸に成ると、決まってきちんと咲いています。「暑さ寒さも彼岸まで」と言はれていますが、彼岸「二十四節季」の春分と秋分を中心に前後3日を含む7日間の事を、それぞれに春彼岸秋彼岸と言います。彼岸と言えば、先ず墓参り。各寺院では、彼岸会(ひがんえ)や「施餓鬼供養」が行われます。何故彼岸にお墓参りをするのか?其れは、此の俗世を此岸と言うが、此れに対して死後の浄土は彼岸と言います。此岸は生ある人間が、煩悩に悩ませられる世界で、彼岸は其の煩悩を断ち切って、悟りを得た涅槃(ねはん)の境地に入る事と、説法で教えられました。さて、秋の彼岸に咲く彼岸花も万葉人は、この花を壱師(いちし)と呼んで「路の辺の壱師の花の、いちしろく、人皆知りぬわが恋妻を」と柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が「いちしろく」と詠っていますが、此れは彼岸花の紅を表しています。万葉集で壱師を詠んだ歌はこれ一首ですが、燃える様な紅い花なので、何処か此の世の花にない不思議な悲しさがある処から、架空の花の名、「曼珠沙華」とも呼ばれて、花言葉は、「悲しき思い出」と言はれています。   

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2006年9月17日 (日)

皇女和宮と徳川家茂。

Dscf0159 大老・井伊直弼が、暗殺された事で、徳川幕府の権威も失墜して、勤王の志士たちは倒幕に動きはじめたので、危機感を抱いた幕府は朝廷に「公武合体運動」を展開。将軍・徳川家茂(いえもち)との婚約に、孝明天皇の妹である皇女・和宮(かずのみや)の降嫁を進めました。和宮はすでに有栖川宮家と婚約と言う事に成っていたので、降嫁を拒絶したが、天皇が和宮の代わりに幼い自分の娘を、家茂に嫁がせ様とさえ思いつめたので、和宮は苦悩の末に「御嫌さまの御事ながら、御上の御為と思召し、関東へ成らせられ候」と手紙を送って降嫁を承諾したのでした。 文久元年和宮の輿入れが正式に決定して、同年秋に和宮は江戸に下りました。 幕府は総勢15,000人の花嫁行列を仕立て江戸まで、大パレードを繰り広げていましたが、和宮の心は晴れず、「落ちていく、身とは知りながら 紅葉ばの人なっかしく、こがれこそかれ」有栖川宮への想いを詠んでいます。 翌年、2月11日、将軍家茂と正式に結婚しました。 家茂は紀州家から14代将軍に成りましたが、聡明で思いやりが深く家茂の優しさに、和宮も本気で将軍を愛し始めてゆきました。家茂も珍しい金魚や鼈甲の簪などプレゼントしましたが、和宮も好きなお菓子を度々差し上げて、家茂と会っての会話を楽しんでいました。 又、和宮は家茂の無事を祈って、お百度を踏んだとも言はれています。家茂「第2次長州征討」の最中、大阪城において、にわかの病の為に、慶応2年5月16日に21歳の若さで病没しましたが、家茂の側近から和宮が、お土産にとねだった西陣の織物を手渡されて、病中もその事を、忘れていなかった家茂和宮も号泣しました。 「空蝉の唐織ごろも、なにかせむ、綾も錦も君ありてこそ」和宮も歌を詠んでいます。 慶応4年鳥羽伏見の戦いに敗れた15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)は江戸に逃げ帰って来ました。「もし官軍が江戸城を攻めるのであれば、自分は徳川と運命を共にする」と嘆願書に記していますが、 この和宮の尽力は、決して小さなものでは有りませんでした。 明治の世を迎え和宮は、明治2年に京都に戻って生活しますが、再び江戸にたち帰り、東京、麻布の閑静な屋敷で静かに暮らして、明治10年9月23日に「脚気衝心」(かつけしょうしん)の為に32歳で其の生涯を閉じました。 生前の本人の希望によって遺骸は、芝増上寺に葬られてたが、墓は家茂の隣りに安置されて、今でも増上寺の墓地には、二人の墓が仲良く並んで建っています。 さて、町内の祭りで、「御輿」の画像を載せましたが、大人の御輿に、子供も参加していました。 「祭りの起源」は、平安京に都(みやこ)が定められた後の、869年。天下に、疫病が流行して多数の死者が出たので、世間では、此の疫病は「牛頭天王」なる神の祟りとして、其れを鎮める為の祭りがあった。と記され 其れと共に諸説は色々とあるも、土地の神に稲作を行う事の許しと、来る年の豊作を祈ったのが、「祭りの起源」である。とも言はれています。

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2006年9月 6日 (水)

大姫と義高の悲恋。

Dscf0137 鎌倉幕府を樹立して、武家の棟梁として君臨しようとする「源頼朝」にとつて、討伐すべき敵は平家だけでは無かったのです。なかでもいち早く京の都を占領した「木曾義仲」の存在は頼朝にとって、邪魔者でしか有りません。頼朝義仲追討の軍を京に差し向け。・・・こうした同族相打つ戦乱絵巻のなかの此れは、寿永2年に、頼朝の長女「大姫」 (おおひめ)6歳と、人質として鎌倉に差し出された義仲の子「義高」(よしたか)11歳との間に芽生えた恋心が、幼い二人に育まれた恋物語ですが、その後、義仲は京に進軍。翌年には源範頼。義経の追討軍に破れて近江栗津で討ち死にしました。その頃、鎌倉では、木曾義高は幼い大姫の小さな手を引いて遊んでいます。大姫義高を慕う思いは幼いながらも一途で、二人の許嫁として頼朝の妻「政子」を始め、仕える女房からも温かい目で見守られていました。「吾妻鏡」に依れば、頼朝は、義高を殺そうと思い立ちましたが、此れを察した女房達が大姫に内密に知らせて、義高を女装させて、館を脱出させました。追っ手に追われて義高も入間川の河原で、斬られて命を落しましたが、大姫の小さな胸は張り裂けんばかりで、涙ながらに政子にしがみつき、とうとう水断ちまでしました。其の後、頼朝「一条高能」(たかよし)との縁談を問うが、大姫から縁談を強いるなら自害すると拒絶されています。その後、大姫の健康もすぐれず、幼少の胸にあつた義高の面影を思い浮かべれば失意は増して、生きる力も失せて、心身共に少年・義高に捧げ、悲しい哉20歳で悲恋の生涯を閉じました。画像の御堂は無量の光明を持って全ての人の求願を満たされる、阿弥陀如来を安置する処から「光明殿」と言われて、光明殿道場と、法要仏事の斎場と共に、「八角祈願殿と不動明王堂」。を弘法大師御遠忌事業として、西新井大師寺内に建立された御堂で御座います。

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2006年9月 4日 (月)

静御前。

Dscf0109 鎌倉時代の歴史を、駆け抜けた悲劇の武将・「源義経」に愛されて、彼の有名な「鶴岡八幡宮」での「静の舞」は、誇り高く生きた「静御前」の物語と成っています。文治元年11月17日頼朝に追われて「源義経」と吉野の山中で別れた「静」は、捕らわれの身となって、鎌倉に送られましたが、此の時には愛しい義経の子を宿していました。頼朝の命で義経の行方について厳しい追及がありましたが、知らないものを聞き出すことは出来ませんでした。幾多の功績にもかかわらず義経の様に、不器用に生きる男に愛された「静」の思いは、どの様なものであったのでしようか、同年4月8日。鶴岡八幡社頭での「静の舞」は、頼朝の正室・政子。長女・大姫(おおひめ)のたっての希望であったと言うので、「静」は心を決めて舞台に立ちました。「吉野山、嶺の白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき、しづやしづ、しづのをだまき繰り返し、昔を今に、なすよしもがな」と義経への恋慕を堂々と吟じて無情な設定の中で、潔く見事な舞いを披露した「静」に頼朝は激怒しましたが、特に政子は、身を置く同姓の立場から深く感動して、大姫と共にとりなして、頼朝の怒りを鎮めて、ついには祝儀まで出させました。残酷な運命と言えども、鶴岡八幡の舞台は、舞の名手・静御前にとって一世一代の見せ場でありましたが、博学の誉れ高い藤原通憲(ふじわらみちのり)に白拍子を学んだと言う、母の磯禅師(いそのぜんじ)から厳しく仕込まれた歌舞の才能の見せ処でもありました。閏7月29日、産まれた子は男子なので、即刻、由比ヶ浜で命を奪われ「16日、静・母子暇を賜りて帰洛す」と「吾妻鏡」に記してあり、母子とは、静と磯禅師の事で、鎌倉を後に母親と共に京に向かいました。「義経記」によれば、帰京した静は「てんりう寺のふもとに、草の庵を引き結び」とあり、磯禅師と共に厭世の生活を送つていましたが、我が子まで殺された運命に耐えきれずに、翌年20歳で無念の悲恋を秘めながら他界したと言はれています。画像の御堂。「光明八角殿」は、阿弥陀如来を安置する「光明殿」の脇にあり、光明殿道場と共に、八角祈願殿と言われ祈願満足と、福徳を与えられる事を、阿弥陀如来にお願する祈願殿ですが、「不動明王堂」と併せて、弘法大師御遠忌として、建立された御堂であります。
 

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2006年8月21日 (月)

小野小町の文塚。

Dscf0103 古今和歌集で、小野小町は、「おもいつつ寝ればや人の見えつらむ、夢と知りせば覚めざらましを」 《いちずに思いながら寝たので、あの方が夢に現れて下さったのであらうか、もし夢とわかつていたなら目を覚まさないでいたのに》 と歌い、又、古今集「夢の逢い」小野小町が詠んだ歌に、「いとせめて、恋しきときはむばたまの、夜の衣を反(かえ)してぞ着る」 《胸がふさがるほど恋しくて成らない時は、あの人を夢で見た時の夜の衣をいと願って、その衣を裏返しにして身をつつむ》 と愛する人に夢でもいいから逢いたいと願う、切ない恋心を歌っていますが、絶世の美女であり、秀麗な歌人と謳われた小野小町と言えども目が覚めて、はかない幸せを夢と知る時の虚しさは、言いようもない思いだつたのと、絶世の美女と言はれた小野小町でも、恋は思う様にはならなかった様子でした。小野小町のゆかりの寺・随心寺(京都市山科区)には、小町が男性から貰った千通の恋文を、埋めたと言う文塚が残っていますが、当時の夢は信仰の様なもので、恋人が夢に現れるかどうかで、恋人や自分自身の気持ちを確かめていたとの事でした。画像は7月9日に「西新井大師商栄会」青年部の企画した「よさこい祭り」ですが、特に高校生の若い男女が、「め組」独特の半纏地下足袋姿で、活気のある踊りを披露していました。この後8月20日21日と「大師祭り」で、境内には、踊り櫓が建って、阿波おどりと、流し踊りの華麗な舞い夏の夜景に見物の人々から盛んな拍手がわき上がっていました。

 

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2006年8月14日 (月)

平井権八と小紫。

Dscf0125 平井権八は吉原の遊女小紫に惚れて通いつめていたが、ある夜、金に窮して追い剥ぎをする事にして、吉原帰りの商人を、お地蔵さまの背後に隠れて待ち伏せ、金を奪って殺したが、其の悪事もバレて捕まり鈴ケ森の刑場で獄門になっています。  又、小紫は江戸吉原三浦屋の抱え遊女で、美貌の名妓と言はれていますが、平井権八が刑死すると、それに殉じて、目黒東昌寺の権八の墓前で自害したのが、目黒不動前の「比翼塚」に其の由来が残されています。 ちなみに、「比翼」と言うのは二羽の鳥が翼を並べる形で、相思相愛の男女の形容に用いられて、比翼塚は情死や、後追い心中した男女の合葬塚でありました。 文政六年市村座で初演された「御存知鈴ケ森」では、江戸花川戸の侠客、幡随院長兵衛が、たまたま処刑場鈴ケ森を通りかかり、ゆすりたかりの雲助たちを相手にして、見事な立ち回りを見せる白井権八(歌舞伎では白井権八になっている)を見て、其の大胆さにすっかり惚れ込んでしまい「お若けぇ~の!お待ちなせぇ~」のかけ声と共に、小紫は21歳前後。権八25歳と言はれていましたが、権八は悪人でも小紫の後追い心中に鶴屋南北の作品が、其の台詞と共に歌舞伎で、評判を呼び同情の念を呼び覚まし、江戸っ子の意地と誠を張り通した遊女として、其の心意気には多くの人々の涙を誘いました。 さて、西新井大師さんの境内に、不動堂がありますが、其の脇の「水子の供養堂」に、大きな地蔵菩薩が置かれています。 其の廻りには、この世に生を得なかった水子や、幼くしてこの世を去った幼児の為の梵字(三途の川で鬼に虐められない様に)の書かれた小さい白い供養石が沢山並んでいます。 お線香の煙が漂う薄暮の刻に、「水子の供養堂」がひっそりと佇み、母親が我が子に供えた赤い風車が、風にカラカラと小さい音をたてて廻り、お盆の頃にはお参りの人が絶えません。

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2006年8月 5日 (土)

額田大王。

Dscf0077 大化の改新後の激動の時代に、☆紫草のにほえる妹☆とうたわれた「額田王」(ぬかたのおおきみ)は、古今最高の女流歌人と言はれて、其の歌は優麗にして、格調高く人々の心を動かしたと言はれています。「いにしへに恋ふらむ鳥は、ほととぎす、けだしや鳴きしわが念(も)へるほど」  ホトトギスは昔を想って鳴くそうですが、あの人の事を思う私のように、きっと激しく鳴くのでしょうね。と初恋の人を想い、女性ながら時の権力者である兄弟の天智。天武。の両帝に愛されて、悠久の華やかな恋に生きた誇り高き歌人。額田王は、十市皇女(といちのひめみこ)までもうけた大海人皇子(おおあまのみこ)と言はれた「天武天皇」と別れて、天智天皇(大海人の兄)に寵愛されていました。天智天皇も額田王の姉と言はれている「鏡王女」 (かがみのおおきみ)と別れてからの事でしたが、この歌に浮かび上がる当時の激しい恋の日々が偲ばれます。しかし二人の崩御後は、一人で隠棲したと伝えられています。現代では考えられない、何とも複雑な古代の恋系図でしたが、されど凛として生きる女性の姿は、此の時代にはよくあるパターンと言はれていました。画像は大師さん参詣の前に、手を洗い口を濯ぎ身を清める水屋での、唐金製の台座の唐子童像ですが、天保年間に制作されたもので、唐子童の担いでいた唐金製の水桶は、第2次大戦で他の仏具と共に供出されて、唐金の唐子童だけが、四方から現在も石で出来た水桶を支えています。

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2006年7月20日 (木)

シーボルトとお滝さん

Dscf0058 さて、オウムに言葉を覚えさせる時によく「おタケさん」と言って覚えさせますが、其れはそもそも「お滝さん」だつたと言はれています。 「お滝さん」とは、ドィツ人医師シーボルトの愛した日本女性、楠本滝の名前だったのです。文政6年、日本商館付医員で来日。丸山遊女の楠本滝を好きになり、一緒に暮らした(楠本イネと荻野吟子参照)シーボルトの邸宅では一羽のオウムを飼っていましたが、当時では珍しいこのオウムに、惚れた「お滝さん」の名前を覚えさせていました。只、シーボルトのドィツ語訛りの日本語では、オウムのお喋りも「おタケさん」となり、此の「おタケさん」が、オウムに言葉を教える時の定番と成ている様です。又、お滝さんの好きだった日本独自の花。紫陽花の植物学名も「お滝さん」と名付けましたが、ドィツ語訛りの「ヒドランドゲァ・オタクサ」と成つています。尚、画像の出世稲荷神とは、本来五穀の神である倉稲魂神(うかのみたま)を祀つていますが、嵯峨天皇より東寺に賜りました折りに、明神が翁の姿で現れ救いを垂れましたので鎮守として祭られました。黄昏庵では娘。息子。孫も、お願いに霊験があり、近在の人も参詣している有り難いお稲荷さんです。

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2006年7月14日 (金)

よさこい祭り。

Dscf0068 7月9日は、足立区西新井大師さんで、「よさこい祭り」があり、各連が「よさこい踊り」の流し踊りを競いました。よさこい踊りは高知から流行った様で、勇壮な若者向けの踊りで、阿波踊りや盆踊りとは違って、若者のバリェーション豊かな体操と、阿波踊りの合体の様で、鉢巻きを締めて独特の半纏で踊り、特に高校生の若い男女が「め組」の特攻半纏?地下足袋姿で華麗に踊り、最後に「め組」の大きな旗を振って踊るのは、若者特有の活気があって楽しめました。!(^^)! 中には若者に負けずとばかりに、50~60歳代の昔!(^^)!美人?オバンの50~60人の連も居ましたが、これは、介護リハリビ軍団だぁ~とのヤジも飛び、父ちゃん天国。私しゃ極楽。(*_*)とばかりに楽しんでいました。又、若いママ軍団は(*^_^*) 幼稚園の我が子と共に踊り、中には、半纏鉢巻きの小さな幼女もいましたが、お母さんが子供を忘れて夢中に踊り、ヨチヨチ歩きの幼女が遅れると、後ろの他の連の若いママが、お互いに面倒を見ながら踊るという、ほほえましい姿も見られました。女性は強いですねぇ~(^^;) 連の人も越ケ谷。千葉の三番瀬チーム朝霧鳴子一族。大江戸東京音頭「め組」と各地からの連で大変でした。見物の人出も多かったのですが、今年初めての「よさこい祭り」なので、来年は結構、もっと見物人も集まる様になると思います。世の中はミサイル問題で騒がしい時ですが、「よさこい祭り」の様な平和で楽しい日本を何時までも残して置きたいと考えています。画像は大師さんの「如意輪堂」と言われて、観音像が祭られて何時の頃からか、女人願望に特に霊験があり、其の功徳が多いので☆女人堂☆と言はれて、女性の参拝者が後を絶たないと言はれています。

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2006年7月 1日 (土)

ナポレオン展。

 Photo_7 4月から6月にかけて「ナポレオンとヴェルサイユ展」が、江戸東京博物館で開催されて宮殿美術館の絵画。彫刻。家具。工芸品と共にナポレオンの波乱の生涯を縦軸としての絵画を始め、Ⅰ804年ノートルダム大聖堂で「戴冠式の正装の皇帝ナポレオン」と共に正装した皇妃ジョセフィーヌの絵画。又、ナポレオンが、連戦連勝した「マレンゴの戦い」で一連の戦争に終止符を打った迄の戦場の精細な絵画と、ジャツク=ルイ・ダヴィット、の名画「アルプスを越えるボナパルト」やフランソワ・ジェラール、の「ローマ王の肖像」と言った時代を代俵する、画家たちの勇壮な油彩画が、観覧する人を満足させました。只、フランス革命での運命に、翻弄されたマリーアントワネットの処刑が行われる寸前の、黒い紗の喪服をまとった、高貴な雰囲気での寂しい顔の小さな絵画は、ナポレオン、ボナパルトの勇壮な勝利の絵画と対象的に、忘れられない想いが残りました。画像は弁天堂ですが、弁財天河川を神格化した女神で、其の昔、他芸道を司どり、弁舌衆に優れて、衆生福徳を与えました。尚、この弁天堂は江戸期の古書にも記されていて、祈願満足を願う人々が多く、参詣している弁天堂です。

 

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2006年6月24日 (土)

防人の詩

Photo_5 さて、イラク派遣の自衛隊も任務も無事に終わり、航空自衛隊を残して帰国しますが、今年のお正月に着飾った初参りの娘達が、除夜の煩悩の鐘も済んで「明けましておめでとう」!(^^)!の声と共に、一斉に携帯の画面を開いています。其処には「アケオメ!(^^)!」「コトヨロ(*_*)」のメールが、ピースサィン(^_^)vの写真付きで写っていました。其の昔。防人(さきもり)の詩に「我が妻も絵に描き取らむ暇(いっま)もが旅、行く我れは見つつ偲はむ」(せめて妻を絵に描く時間があったら、其れを見て妻を思うのに)と詩っていましたが、此れは現在の写メールと同じ発想でした。イラクの自衛官も家族の写メールを見て、現代の防人の心境だったのでしょう。

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2006年6月23日 (金)

鉄道博物館

  交通博Photo_4物館は、神田万世橋で開館してから70年に成りましたが、戦時中には、「杉野はいずこ杉野はいずゃ♪」と杉野兵曹長を沈みゆく艦上で探す、広瀬中佐の銅像が建っていました。戦後この銅像は取り外されましたが、現在でも、公開日は親子連れ(^O^)で賑わつています。館内は陸。海。空の乗り物の実物を集めた博物館ですが、特に蒸気機関車「義経号」と「弁慶号」も展示されていました。又、「汽笛一声新橋を♪」の鉄道唱歌で有名な、一号蒸気機関車「やえもん号」は!(^^)! 明治5年に日本で最初の鉄道が敷かれて、新橋~横浜間を走りました。この交通博物館も秋葉原の近代化の波に逆らえず、平成18年5月14日で閉館。都内で子供達の楽しみな施設が消えて行きましたが、埼玉県大宮市で新しく開館されます。

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2006年6月10日 (土)

大塚楠緒子「お百度参り」

Photo  さて、情熱の歌人。与謝野晶子は日露戦争で、「君死に給うことなかれ」を発表して、親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて人を殺せとおしえしか。・・・・かたみに人の血をながし獣の道に死ねよとは、・・と、反戦を謳歌したのに対して、大町桂月からの反論に対して「まことの心うたわぬ歌に、何のねうちか候べき」と「ひらきぶみ」にて反駁しましたが、其の折りには、才色兼備の誉れ高い佳人と評判の、大塚楠緒子も「お百度参り」の歌で「ひとあし踏みて夫(つま)思い。ふたあし国を思えども、三足再び夫(つま)思う。女心に咎ありゃ」と晶子を援護。桂月を批判していました。老人が始めて、若者が死に、女性と子供が泣く。戦争の悲惨に対する率直な女心は、現在でも変わらないでしょう。

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2006年5月16日 (火)

楠本イネ。

ドィツ人医師シーボルトと楠本滝の間に生まれた幼女のイネは、父の影響を受けて赤毛なので、異人の子と言はれ苦労して外産科医学を学びました。当時は産婆の助けを借りて陣痛に苦しみながらの出産なので、死亡率も高く西洋医学に比べて、遅れていた従来の出産方法の改善と婦人病の治療に、女医として貢献しました。其の後医療に専念。明治三年築地で産科医院を開業。福沢諭吉の推挙により宮内省で、若宮(大正天皇)の誕生に奉仕したと伝えられています。荻野吟子が日本初の女性医師と言はれていますが楠本イネの方が蘭方女医師として、年代と実績も先、との記録があります。

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シーボルトの娘イネ。

               シーボルトの娘。蘭方女医師楠本イネ。
 シーボルトは、江戸時代後期に、オランダ東インド会社の日本商館付医員として、来日したドイツ人医師。文政6年28歳で来日。出島の商館に勤務して長崎に滞在中に、丸山遊女の楠本タキとの出会いでタキが好きになり、タキもシーボルトに好意を寄せて交際が続き、そのうちにタキも身ごもり、出産の時にはオランダ商館シーボルトの子として、(イネ)が生まれました。
 しかし「シーボルト事件」で父が文政12年12月に、日本を去った時にはイネは2歳8ヶ月でありましたが、イネは父親譲りの赤毛で色白の彫りの深い顔立ちで、其の身柄は父の門人二宮敬作に託されて成長し、母の生家の楠本イネを名乗り、弘化2年より嘉永4年まで、町医師石井宗謙に産医学を学びました。
 其処で、村田蔵六(後の大村益次郎)にブルーハブェと言う、当時では珍しい物理の本についての解読法を、教わっていた時に淡い恋心が芽生えましたが、その時にはイネも宗謙の子を宿していて、出産も生理現象だと割り切つて産医学の知識と経験をもつて、独りで出産に挑んでタカ女を産みました。
 女性が子を産むことの全課程を我が身で知り、当時の女性は出産に際して薄暗い納戸部屋や土蔵で、産婆を相手に生死の境をさまよっているのに、母屋では、夫が一族と酒を酌み交わしながら、出産を待っていると言う状態で、この現状が、出産は不浄なものと扱われている風習に気づき、出産に対する考えを此れからは、変えてゆかなければ成らないと、安政元年より文久元年まで、育て親の宇和島の医師。二宮敬作に就いて、それぞれ産科術を修行しながら安政6年以降、明治2年までは、オランダ医師。ポンペに外産科術を学びました。
 蘭方女医師イネと大村益次郎(村田蔵六)の恋も明治2年。明治政府の要職にある彼が、新兵制に不満を抱く士族の刺客に刺され、其の傷がもととなって敗血症となつた時から、イネは絶え間なくガーゼと包帯の交換に追われ、食事から排便の始末まで、総てをイネが行ったが手遅れとなり、明治2年11月5日益次郎が、付き添うイネに見もられながら、静かに息を引き取る迄、続きましたがその後、維新史で村田蔵六が、大村益次郎と言はれています。現在いろいろと問題になっている靖国神社は、そもそも大村益次郎の発案で戊申戦争の戦死者を弔い、明治2年に招魂神社と共に、英霊の御霊を悼むために設立されましたが、彼の銅像は現在も、靖国神社の境内に建てられています。         明治3年イネは横浜に戻り、その後、間もなく医師として東京に出て、築地2丁目で産科医院を開業。明治6年福沢諭吉の推挙により、宮内省御用掛となり権典侍、葉室光子の若宮誕生に立ち会い、誕生後、長崎に帰りましたが、再び宮内省の要請で上京。麻布狸穴に開業して、晩年は寡婦となった娘のタカを相手に琴、三味線に明け暮れる静かな余生で、明治36年77歳で没しました。

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唐紅に水潜るとは。在原業平

在原業平(ありはらのなりひら)は「在五中将」と呼ばれて、六歌仙。三十六歌仙の一人に数えられています。又、「伊勢物語」は、業平の歌を骨子に「歌語り」を文章化した代表的作品で、「在五中将物語」とも言はれています。特に「ちはやぶる神代もきかず竜田川 唐紅(からくれない)に水くくるとは」の歌は、不思議な事の多い神代でも聞いた事がない。青い竜田川の流れを絞り染めの池として、唐紅の布の様に、美しい紅葉を模様に染め出して(水くくる)いる様で、実に美しく不思議な状景である。と歌っていますが、誇張された奇抜な表現と生き生きとした大胆な言い回しが業平の特色と言はれています。

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2006年5月13日 (土)

石川啄木と、妻、節子

明治43年12月に歌集「一握の砂」が刊行されて、文壇における石川啄木の存在を、不動のものとしましたが、長男の夭折に依る落胆と共に、啄木の体力は衰え始めました。其の翌年。節子をめぐつて騒動が起こり、それは、節子の義理の兄である郁雨との不義疑惑と言う事でした。責められて節子も涙を流しましたが郁雨には潔白であると言はれて真相は解りませんでした。此れは節子にとつても心晴れぬ気持ちでしたが、明治44年4月に極貧生活の中で、啄木も寂しい生涯を閉じ、又啄木の悪化する身体の介護に萎えたのか節子も肺結核を患い45年5月に死去しました。

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啄木の淡い恋。「一筋の血」

薄幸の詩人。と言はれた石川啄木は「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」の詩の様な虚無的な暗さを伴った生活が続きましたが、そんな啄木にも悲しく淡い初恋があり「赤き花。今も目に見ゆ六歳の恋。」と歌っています。其の人は藤野と言う黒味勝ちの目がパッチリとした色の白い、笑窪の可愛い美少女でした。同じ歳の新太郎(啄木)を、姉の様に面倒をみて、啄木も淡い恋心を抱いていましたが、八歳の時に水車に挟まれて死んで、六尺に足らぬ穴に葬られ、上に青草が生える悲しみを覚えたと、啄木の「二筋の血」に書いてあります。

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2006年5月12日 (金)

華岡青州の妻。

有吉佐和子の小説で有名な「華岡青州の妻」加恵は紀伊の国の郷士の娘として医師華岡青州と結婚しました。青州はオランダ流外科を学び漢方と蘭方を折衷して「内外合一」の臨床外科を研究し長年の苦心の末。全身麻酔の「通仙散」を開発。文化元年に日本初の乳癌摘出手術に成功しましたが、其の研究を身をもって支えたのは、妻の加恵であり麻酔薬の毒性を量る「親試実験」を繰り返した結果。加恵は失明。その後二十年間を盲人として生きて、六十八歳で亡くなりました。青州の度重なる研究と弛まぬ研鑚。そして加恵の献身的な協力なくしては、出来ない偉業であります。

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2006年5月 8日 (月)

情熱の歌人鉄幹と晶子。

情熱の歌人として知られる与謝野晶子は、明治11年(1878年)大阪堺市の駿河屋と言う老舗の羊かん屋の3女として生まれ。堺女学校を卒業、女学校時代から、特に日本文学に親しみを覚え、家事を手伝い、帳場に坐りながら『源氏物語』などをひもといたと言はれていましたが、明治34年、来阪した与謝野鉄幹と出合い晶子は、鉄幹のつくる新体詩のすばらしさに、感銘をうけて鉄幹が経営する「東京新詩社」に加わり、翌年には鉄幹との結婚のため家を捨てる等、私生活に於いても、彼女の生き方と作品も同じく情熱的でありました。
 才能と豊かな感性を持った彼女は、明星派の中心的歌人として、浪漫的な作品を数多く発表していますが、特に与謝野晶子の処女歌集『みだれ髪』に収められて、発表され有名になった歌と言はれる。「やわ肌のあつき血潮に触れも見で、さびしからずや道をとく君」や「乳ぶさおさへ、神秘のとばりそとけりぬ、ここなる花の紅ぞ濃き」と歌い。現代では女性の自立と共に、女性の主張も市民権を得て男女同権の時代ですが、明治34年の頃は、タブー視されていた性を女性の立場で此の様に、官能的に表現し堂々と肯定して、謳歌したのも前代未聞の事でしたが、此の歌集は、当時の文壇に衝撃を与え、近代短歌に影響を与えました。
 この時、与謝野鉄幹は、妻の滝野とも別居状態で、離婚も時間の問題と言はれていましたが、鉄幹は、山川登美子とも恋愛関係にあり、又、登美子も親の決めた人と、郷里に帰り結婚しましたので、晶子と鉄幹は結ばれました。
 その他、日露戦争の熱狂のなかで、女性の立場から否戦の感情を表わした詩を「明星」に「君死にたもうことなかれ」と発表。「あ々弟ょ、君を泣く、君死にたもふことなかれ、末に生まれし君なれば、親の情けはまさりしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せとおしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までそだてしゃ。」と歌い、大町桂月から「宣戦布告を非難す。大胆なるわざなり」と批判されましたが、反戦を論じたのではなく「まことの心歌わぬに、何の値打ちか候べき」と歌の本質で反論しました。
 一方、家庭では11人の子の母、鉄幹の妻として大正、昭和の動乱期を生き抜き、昭和17年(1942年)鉄幹におくれること7年、64歳で華やかにも美しい浪漫詩人の生涯を終えましが、インターネットの検索によれば、多摩霊園の11区に堂々たる規模の墳墓があり、「並びて寝ねん西の武蔵野」との歌の通りに、鉄幹と並んだ晶子の棺蓋には「皐月よし、野山の若草光みち、末も終わりもなき世のごとし」と刻まれ、家庭では11人の子を育て、妻としても歌人としても、見事な良妻賢母ぶりを発揮しましたが、尚、衆議院で国政に携わっている与謝野馨議員は、与謝野鉄幹。晶子夫婦の孫にあたります。     

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山川登美子と、与謝野鉄幹。

与謝野鉄幹の新詩社「明星」での門下生として、白百合は山川登美子。白萩は鳳晶子と言はれる程の二人は親友でした。登美子は情感豊かな歌を作りましたが、鉄幹と晶子の仲から「紅き花みな友にゆずり」と身を引いて郷里で結婚。二年後に夫は病没。そして父まで失い野辺に棺を見送り、独り残された登美子は「我が棺、守る人なく行く野辺の、寂しさ見えつ霞たまびく」と冬の枯野での野辺送りの歌を残して、三十歳に満たない若さで結核の為。其の生涯を閉じました。薄幸の歌人。登美子が病没した時に鉄幹は「君なきか若狭の登美子しら玉の、あたら君さえ砕けはつるか」と悲痛な歌を残しています。

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妻を娶らば。鉄幹と晶子。

「妻を娶らば才たけて、みめ麗しく情けある。」と歌い「ますらおの人」と言はれた与謝野鉄幹も、若く優れた弟子の晶子との恋に苦しみました。晶子も「なにとなく君に待たるるここちして、いでし花野の夕月夜かな」と夢見る様な、乙女心で歌っています。又、鉄幹を挟んで山川登美子と晶子は、共に、鉄幹への思慕を寄せていましたが、登美子は「それとなく紅き花みな友にゆずり、そむきて泣きて忘れ草つむ」との歌を残し心ならずも、若狭に去って、郷里の人と結婚して晶子と鉄幹を、結ばせました。

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与謝野鉄幹と晶子。

与謝野鉄幹が、機関誌「よしあし草」に新体詩。「人を恋ふる歌」を載せて明治の文壇に躍り出た情熱に晶子も酔い、其の強さに「虎の鉄幹」とも呼ばれました。「明星」で、若き歌人の晶子が「みだれ髪」に収めた「やわ肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君」は、性を肯定した斬新さで、文壇に衝撃を与え、多くの若者の共感を得ましたが、この時。鉄幹は妻子と別れ、若い晶子と生活を共にして数ヶ月と言う、初々しいカップルでした。

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与謝野晶子展。

虎ノ門。大倉集古館での「与謝野晶子展」を見に行きました。夫の与謝野鉄幹は「明星」の前身「よしあし草」で新体詩「人を恋ふる歌」を発表♪妻をめとらば才たけて顔(みめ)麗しく情けある。友をえらばば書を読んで、六分の侠気四分の熱♪(一高の寮歌に成った)で始まる鉄幹ならではの情熱に、酔わぬ者はいなかったが、やがて浪漫主義の衰退で、休刊となった「明星」に、創作意欲を失った鉄幹の念願であったヨーロッパ留学を、実現する為の資金調達に晶子は執筆活動を展開。「歌百首屏風」又、与謝野源氏と言はれた「源氏物語」の翻訳を執筆して、鉄幹をヨーロッパに送りだしました。其の時の「歌百首屏風」の実物や「源氏物語」の原稿を見て文学史に足跡を残し、真摯に生きた歌人、与謝野晶子の偉大さに、感激しました。m(_ _)m

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与謝野晶子忌。

田植えに燕の飛ぶ姿が見られる頃。5月29日は晶子忌となります。与謝野晶子の処女歌集である「みだれ髪」は明治34年に刊行され晶子の名も「明星」で開花。歌人としても歌壇で、名声を博しました。又、明治の日露戦争では「君死しに給うことなかれ。」を「明星」に堂々と載せて「すめらみことは、戦いに・・・・・かたみに人の血を流し、獣の道に死ねやとは」と大胆率直にうたいあげています。大町桂月が、「義勇公に対して大胆なるわざ也」と至難。負けずに晶子も「ひらきぶみ」で反論して何者にも恐れぬ程の情炎を謳歌した歌人でありました。

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樋口一葉の半井桃水との悲恋

                      樋口一葉の半井桃水の恋。
 一葉(奈津)が桃水と会ったのは、妹の「くに」の友人が、小説家半井桃水(ナカライトウスイ)を紹介して呉れたので、明治24年4月15日午後。半井桃水と初めて会う約束をしましたが、桃水は東京朝日新聞社の小説欄に執筆し記事も書いていました。丁重に挨拶を交わした後、ひたすらかしこまり、言葉も少なく静かに対応している一葉に、桃水は「読者はまだ幼稚で、新聞小説では読者の興味を誘う様な小説を書いて、批評家から非難されています。」と桃水の方から話しの口火を切って快活に笑い、一葉から見た桃水は年齢は30歳程か?色白で背が高くて逞しく、それでいて穏やかで、笑みがこぼれると優しく思えました。 一葉の目的は桃水に小説の師匠に成って貰い、小説の手ほどきを受ける事だったが桃水の方から「話は伺っています。苦しいでしょうが、何時でも話し相手になります。ご遠慮なくいらして下さい。」との言葉に、一葉(奈津)の目から涙がこぼれそうに成りました。 又、桃水は、感激する一葉(奈津)に「田舎者の風習で失礼ですが、」と断りながら夕食を共にするが、今まで、異性から受けた事のない優しさを、胸に秘めて帰宅しました。 この時から一葉の桃水への思いは、其の胸の奥に深く、ひっそりと秘めて、文学を通じた付き合いが深まる程に、心は弾み、桃水との語らいに刻を忘れる程。通いましたが、何時訪れても親身で変わらない、やさしさに、桃水への思いは確実に其の胸に育ちました。
 翌、明治25年2月初め、一葉(奈津)は新しい小説の講評を請うために、桃水宅を訪れたが、其の日は、みぞれまじりの雨が、ぼたん雪に変わる頃、一葉が桃水に会うと、近く同人誌を発刊するが、寄稿して欲しいとの話に、早速、持参した「闇桜」を渡しますと「此れは良い是非お願いします。」と桃水の表情が輝き、「寒い処、来ていただき、おわびに、特製のお汁粉をご馳走しましよう。」と言って、お汁粉を作り二人で食べました。
 同人誌「武蔵野」は明治25年3月創刊されて、此の時に「樋口奈津から樋口一葉」の筆名で、処女作品「闇桜」を発表して、桃水の友人は、「創刊号は此の作品の為にある様なものだ」と伝え、桃水に求められる儘に、2号に「たま襷」を発表、3号に「五月雨」を寄稿しましたが、しかし「武蔵野」の売れ行きは思ったよりは悪く、3号の発刊も危ぶまれ桃水は力不足を感じて、当時の文壇の第一人者、尾崎紅葉に一葉の指導を託しました。
 一葉にとっては、そんな桃水は、師であり、兄であり、身近に異性を感じる存在でした。
 明治26年7月。遊廊・吉原の隣。下谷竜泉寺町に雑貨屋を開き、日記の名前を「塵の中」に変えましたが、27年4月に竜泉寺町の店をたたみ、本郷丸山福山町に移つた一葉は、頂き物を持って久しぶりに、桃水の自宅を訪れますと、桃水は歓迎して呉れました。一葉も会った瞬間から桃水への思いは、せきとめる事は出来ない儘に28年「文学界」で「たけくらべ」を連載。「にごりえ」と一気に一葉の名を世に広めました。その後明治29年8月妹「くに」には一葉は肺結核。もはや絶望との診断結果が、伝えられ死期を悟り。「皆様が、野辺をそぞろ歩きをしておいでの時には、蝶にでもなってお袖の辺りでも戯れましょうか」と述べて11月23日午前。一葉は24歳で桃水との悲恋の生涯を閉じました。

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樋口一葉と、半井桃水の恋

歌の道で身を立てる事を、志した樋口一葉は中島歌子の歌塾で、華族や名家の令嬢が学ぶ「萩の舎」に入るが、転向して針仕事をしながら小説を書く事を考えて東京朝日新聞の記者で、小説家の半井桃水を文学の師として小説を書き、桃水の同人誌に初めての作品として「闇桜」や「五月雨」を載せました。その後「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を生みましたが、知的で穏やかな美男子の桃水への恋は果たされず「木枯の吹く音寒き冬の夜は、かけても君の恋しかりけり」と死の年(明治29年)に詠んでいました。遺品のわずかな装身具の中の赤い櫛に女としての一葉の無念さが現れています。

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樋口一葉。「塵の中」

さて、樋口一葉の図柄が、新五千円紙幣に採用されて、十一月より新紙幣として流通します。自ら「塵の中」と言っていた貧しい竜泉寺町の生活の中で、文学の師である小説家。半井桃水を一葉が其の胸に育てていたのは、桃水への思慕でしたが桃水の女性との不品行の噂に、傷つけられた一葉の日記には「ありし頃恋しう。世の人うらめしう。ある時は厭ひ。ある時はしたひ。涙にむせび。忘るるひま一時も非ざりし」と、其れでも果たされぬ恋の悲しみが、切々と綴られて「大つぐもり」や「たけくらべ」と多くの名作を、生みつつわずか二十四歳の若さで、其の生涯を閉じました。

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樋口一葉。浅草竜泉寺町

平成14年に、新紙幣五千円の図柄に、樋口一葉が採用され事が決まりましたが、一葉は、名門の令嬢が集う「萩の舎」に学び。その後吉原遊女の投げ込み寺「浄閑寺」近くの浅草竜泉寺町で、貧困な暮らしの中に底辺の生活を見て体験して、「廻れば大門の見返り柳いと長ければ」で始まる有名な「たけくらべ」の冒頭の一節と共に、そこでの体験が、以後一葉の「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」の傑作をを生む素地となっています。竜泉寺町の経験と営みで得たそこでの女性との往来がわずか二十四歳の若い生涯を、肺結核で閉じた樋口一葉文学の源泉となったと言えるでしょう。

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2006年5月 3日 (水)

小野小町考

             「小野小町考」 
 平安時代初期の和歌の名人六人を、世に六歌仙と呼びましたが、中に唯一人の女性が小野小町で、絶世の美女であつたと伝えられています。小町もさまざまな伝説に彩られましたが、小町のもとに九十九夜通って死去した深草の少将の話は余りにも有名です。小野小町が、三十六歳程の頃。阿部清行と言う若者からも、小町は想われましたが、清行は当時二十四歳程で、今で言へば大学の学士とでも言う程の、優れた秀才の一人であり、この一事を考えても小町が、全くの絶世の美女と言はれるのも解ります。当時は通常の婦人も三十五~六歳になれば、青年の恋を引く程の容色はないのに、小町はこの頃に至るも猶。秀才の愛を引く程でしたので、余程若くそして美しく見えたでしょうが、さすれば、小町も自らの容色の衰えに気が付き「花の色は移りにけりないたずらに、我が身世にふるながめせし間に」と、花の如き色香も失せたと嘆いたのは、四十歳頃と思うのが自然と考えられます。さて、昔から小野小町の事を書いたものには、三河の国からの小町は、段々と落ちぶれて、遂に奥州まで行き八十島(松島)と言う処の辺で、野倒死をしたのであるとの伝説が、甚だ有名な話となっています。そして小町も遂に、野晒しの白骨となってしまった。と言う在原業平の伝説もこれから出ています。或日。野辺のほとりで若者が、うたた寝の中に小野小町が現れて「吹きむすぶ風は昔しの秋ながら、ありしにもあらぬ袖の露かな」と、其の昔の身の若かりし頃。若殿達を悩殺し引く手数多であった事を述べる姿に目覚めると、枕元に卒塔婆があり、誰あらざんと見てみれば、野倒死んだ小野小町の卒塔婆であつたとの事から、この伝説が薪能の「卒塔婆小町」となって、上演されたと言はれています。インターネットで検索した小野小町には、大本山随心院に、小町の晩年の姿を写したものと言はれている珍しい、「卒塔婆小町」の座像があります。又、歳老いて一族の所領で生涯を閉じる旅の途中の高郷村で、病に伏して生涯を閉じたとも言はれ、会津の古道の松原利図に「みちのくのうどの桜と人問はば、会津のそとのとうもての里」との最後の詠み歌があり、五輪の塔が残っていますが、他に小野小町塚に関しては、小町山妙寺に「小野小町姫」と書かれた巻物が残っていて、二つの石碑が立ち其処には「小野妙性大姉」と刻まれていると言はれています。兎に角、数多い名歌と共に、華麗な恋の遍歴を重ねた彼女も、晩年はミステリアスな伝説に満ちた生涯でした。                      

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