シーボルトの娘。いね
ドィツ人医師シーボルトと楠本タキの間に生まれた幼女のイネは、父の影響を受けて、異人の子と言はれ、苦労して外産科医学を学びました。当時は、陣痛に苦しみながらの出産なので、西洋産医術に比べて遅れていた従来の出産方法の改善と、婦人病の治療に女医として貢献しました。其の後、荻野吟子が日本初の〔女性として医師免許を得た〕女性医師と言はれていますが、楠本イネの方が蘭方女医師として、年代と実績も先との記録があります。シーボルトは、日本商館付医員として、来日したドィツ人医師。文政6年28歳で来日。出島の商館に勤務して長崎に滞在中に、楠本タキとの出会いで、タキが好きになり、好意を寄せた交際が続き、タキも身ごもり、オランダ商館シーボルトの子として認知されて、イネが生まれました。しかし、〔シーボルト事件〕で父のシーボルトが、文政12年12月に日本を去った時のイネは、2歳8ケ月でありました。イネは父親譲りの赤毛で色白の彫りの深い顔立ちで、其の身柄は父の門人である二宮啓作に託されて成長し、母の生家の楠本イネを名乗り、弘化2年より、町医師。石井宗謙に産医学を学びました。其処で、村田蔵六(大村益次郎)に物理を教わっていた時に淡い恋心を持ちましたが、其の時にはイネも宗謙の子を宿していて、出産も生理現象だと割り切って、産医学の知識と経験をもって、独りで出産に挑んで、タカ女を産みました。当時の女性は、産婆を相手に、生死を分けた出産をしているのに、母屋では、夫と其の一族が酒を酌み交わして、出産を待っていましたので、其の様な考えを此れからは、変えて行かなければ成らないと、文久元年まで、育ての親の宇和島の医師。二宮啓作に就いて、それぞれの産科術を修めながら、明治2年まで、オランダ医師。ポンペに外科産科術を学んでいました。蘭方女医師イネと大村益次郎(村田蔵六)の恋も明治2年。不満を抱く士族の刺客に刺されて、其の傷がもととなり、敗血症となった時からイネはは絶え間なくガーゼと包帯の交換に追われ、食事から排便の始末まで、総てをイネが行ったが手遅れとなり、明治2年に益次郎が付き添いのイネに、見もられながら静かに息を引き取る迄、其の介護は続きました。其の後、維新史で村田蔵六は、大村益次郎と言はれています。現在いろいろと問題に成っている靖国神社は、大村益次郎の発案で戊辰戦争の戦死者を弔い、英霊の御霊を悼むために設立されましたが、彼の銅像は現在も靖国神社の境内に建てられています。又、イネは女性医師として、明治6年に福沢諭吉の推挙により、宮内省御用係となり、若宮(大正天皇)誕生に立会い、其の後、麻布狸穴に産科医院を開業。晩年は娘のタカと共に、静かに余生を過ごしたと言われています。画像は、☆浅草寺の宝蔵門☆お参りの時に信者が必ず通る☆浅草寺☆の大提灯でした。


























































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