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2006年12月 9日 (土)

楠木正成。

Dscf0232 「楠木正成。笠置山の戦い。」鎌倉時代末期から、南北朝時代にかけての武将、楠木正成(くすのきまさしげ)の古戦場に入る行程に、大阪の富田林から国道で千早赤坂に入ると、小高い丘陵が続き其の一角に古びた墓地がありますが、おびただしい墓石の中に、「寄手塚」「味方塚」と言う鎌倉時代後期に、造られたと言はれる二つの五輪塔が立っています。鎌倉後期で、南北朝に至る混乱期であった元徳3年8月。京を追われた後醍醐天皇は、木津川に近い笠置山(かさぎやま)に陣を置きましたが、其の時に千早から楠木正成が駆けつけました。正成は千早に縄張りを持つ独立武士団であって、正成が千早城など3ケ処の山城で、幕府軍との間だでの激しく繰り広げられた籠城戦やゲリラ戦で、楠木正成の名が戦史に登場するのは、此の頃からであると言はれています。歴史の記録も含めて其れ以前の正成の行状は余り解りませんでしたが、此の戦いに依って多くの死者が出ましたので、幕府側の死者を弔う為に「寄手塚」が造られて、正成側の死者の為に「味方塚」も造られ、懇ろに弔なはれました。此れには異説もありますが、正成が両方の死者の為に造ったと言はれています。二つの五輪塔の前に立つと「寄手塚」大人の背丈程。(1,8メートル)もあるのに対して「味方塚」子供の背丈程しか無く、敵方の塚の方が大きくて立派でありましたが、此の精神は驚嘆に値しました。然し、剥き出しの憎悪を抱いて激越に戦っても、非命に倒れた者は、敵も味方も同じであり、寧ろ敵だからこそ、依り多く讃えると言う古来の日本的な精神論は、間違いなく鎌倉後期に完成されたと言はれています。其の楠木正成も、延元元年。新田義貞の麾下での出陣を命じられて、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍との戦いに破れて、弟の正季と差し違えたと言はれています。 尚、南朝寄りの古典「太平記」には、正成の事跡が強調されて書かれていますが、彼の息子であって小楠公と言はれた楠木正行(まさつら)も父正成と同じく南朝方について戦いました。 四条畷の戦いでは、出陣前、吉野の如意輪堂の壁板に記した「梓弓」の歌は「かえらじとかねて思へば梓弓、なき数にいる名をとどむる」(生きては還るまいと、予め決心したからには、鬼籍に入る我が名を、此処に書き留めるのである。)との名高い歌と言はれています。尚、大阪府富田林市にある臨済寺、宗妙寺派の楠木家の菩提寺。香華寺では楠木正行。正時と共に一族郎党の菩提を弔ってあります。さて、秋葉原は、歌舞伎町や銀座と違った情報発信基地として、世界的に有名な街です。画像は、モニターマンとして商品の宣伝と共に、市場リサーチをしている女装?の男性ですが、大正モダニズム?モドキのメィドギャルのアキバでは、違和感も余り感じない摩訶不思議な空間でした。

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コメント

呆助さん こんばんは

楠木正成の行跡を拝読しますと、昔の武将は節操があったように思えますね。
ついつい今の政治家や官僚と引き比べてしまいますが、
立派だったからこそ、歴史に名を残したのでしょうか。

投稿: 貴市呉いちご | 2006年12月11日 (月) 21時37分

こんばんは!
すみません、記事とは関係ありませんが(汗)、今年は呆助さんをはじめ全国のたくさんのブログ仲間さんとの交流ができ、とても有意義な一年となりました。
感謝致します~来年度もどうぞ宜しくお願い申し上げます!

 メリー・クリスマス&よいお年を♪

投稿: ルーシー | 2006年12月26日 (火) 00時30分

 呆助さん、こんばんは!

 新年おめでとうございます。
今年も呆助さんをはじめ、みなさんの素敵な記事を楽しみに伺いたいと思います。

 素敵な一年になりますように・・・
それでは、本年もどうぞよろしくお願い致します♪

              ~ルーシー~

投稿: ルーシー | 2007年1月 1日 (月) 22時26分

ご無沙汰しています。pcトラブル以来お伺いできず、失礼していました。今回、息子から教えて貰いコメントを差し上げられる様?なので、お伺いさせて頂きます。ボンネットバスは、なっかしいですね。あのバスを見て、題名を忘れた、瀬戸内の学校で、高峰秀子の女子先生の「二十四の瞳」を思い出しました。これからも楽しませて頂きますので宜しく・・・

投稿: 黄昏呆助 | 2008年11月14日 (金) 10時09分

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