唐人お吉。
嘉永6年6月に突如マシュー・ペリー提督と米国艦隊が来航出現して210余年に及ぶ、日本の鎖国政策に依る太平の眠りから起こされましたが、ペリー提督と艦隊が来航する事を知っていた幕府が何の対策も無く帰したので、嘉永7年1月に再び米国艦隊の来航で、鎖国政策の幕府に、艦隊と大砲を背景に「武力も辞さない」と言う政治的圧力を掛けました。当時の日本としては、見た事も無い最新鋭の黒船「蒸気船」が煙を吐く姿は、幕府にとっても驚きと恐怖だったに違いなく、直ちにペリー提督が「日米和親条約」を神奈川で締結後、タウンゼント・ハリスが「通商条約」締結の為。浦賀に来ましたが、幕府はこれを拒み下田に上陸させ、玉泉寺を改修させて領事館としました。又、通訳のヘンリー・ヒュースケンは下田芸者のお福を侍妾としましたが、姉芸者で当時、17歳のお吉を法外な年俸と引き換えに、ハリスの侍妾とする様に下田奉行に働きかけて、お吉はハリスの処に、奉公にあがる事と成りました。お吉はハリスの侍妾に成ると同時に、米国側の真意を知る手段として奉仕、日本側の交渉が有利に成る様に努力して居ました。其のため恋人鶴松にも裏切られ、「ラシャメン」(洋妾)と言われて町の指弾を受けていましたが、人種的な偏見だけでなくて、支度金25両年俸120両をお吉が受け取る事に対する嫉妬と、外人との間に私生児が産まれる事を恐れて、当時の町の親達が取った行為とも言はれています。「通商条約」締結後、ハリスも黒船艦隊と共に米国に帰りましたが、其の後のお吉に対する世間の目は冷たく非情であり、母親の船頭達からの汚れ物の洗濯や繕いの仕事も、お吉の家には少なくなって、網元の家での宴席に侍る仕事もめっきりと減り、当初はさほど生活に困る事も無く、給料も貰って居ましたが、周囲からたかられたり、自分たちも派手に使ったので、やがて生活も困窮して奉行所から30両の下賜金があり、此れが手切れ金となって、奉行所との縁も切れました。お吉も幕末。維新の動乱の最中、芸妓として流浪の果てに、下田にまい戻り、鶴松と共に髪結業を始めましたが、ほどなく離別。更に小料理屋「安直楼」を開業しますが、2年後に廃業して居ます。「唐人お吉」と言う相変わらず、世間の罵声と嘲笑を浴びながら貧困の中に身を持ち崩して、明治24年3月27日の豪雨の夜に下田川に身を投げて、波乱にみちた51年の悲しい生涯を絶ちましたが、遺体を引き取る処も無く、宝福寺住職「竹岡大乗師」が、如来観音の胸に抱かれた姉妹として墓に葬りました。その後、お吉自身の墓も作られて下田の「唐人お吉記念館」に其の生涯を語り伝えられています。画像は「胡蝶蘭」。黄昏夫婦で伊豆下田観光の折り、お吉の写真が、当時の日本女性としては、瞳の大きな美貌の女性なので、ピンクの「胡蝶蘭」を載せましたが、花言葉は「あなたを愛します」と成っています。
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コメント
黄昏さん こんばんは
お吉の晩年は哀れでしたねぇ。
縁あって、私も伊豆方面には、かなり参りました。
下田にも何度か行きました。
お吉が最晩年に経営したという「安直楼」の跡も見ました。
記念館でお吉の写真を見て、本当に美しい人だったと思いました。
初めから大工の鶴松と一緒になっていたら、幸せだったでしょうに、
国の大事業の犠牲になってしまったのですね。
私は下田川から、しばし目を離せませんでした。
投稿: 貴市呉いちご | 2007年3月 6日 (火) 22時56分