マリー・アントワネット。
さて、1755年オーストリアのマリア・テレジアの末娘として生まれたマリー・アントワネット。14歳で、このオーストリア皇女は、1770年5月16日にフランスの王位継承者で、後のルイ16世と結婚して王妃に成りました。彼女は実家である皇室で身に付けた自らのセンスで、フランスの磁器、宝飾品などを好み、バレエを嗜みました。ヴェルサイユ宮殿では、マリー・アントワネット王妃はもてはやされ人々は、彼女の美しさと快活さを称賛し何よりも、当時の芸術上の流行や新しい感覚に敏感でヴェルサイユ宮殿では、洗錬された装飾芸術と共に、音楽又は、ファツション分野で、自らの芸術的な好みも発展させましたが、スキャンダルと浪費癖によって其の人気も急速に衰え、フランス革命が始まると、政治的な利害関係に翻弄され、ルイ16世の和解も失敗して、人々の憎悪を結集させました。フランス革命に倒れ、国王ルイ16世は、パリ市民の集まっている広場の断頭台で処刑されましたが、子供を守る為に(ルイ17世と2人の王女) 国王ルイ16世の後を追う様に、38歳で王妃マリー・アントワネットも同じく断頭台の露と消えました。その後、追放されていたナポレオンの帰還で、王政復古と共にフランス革命も収まりますが、ルイ17世も謎の死を遂げていました。だが、そんな悲劇の王妃、マリー・アントワネットと31年間にわたって友情を育くんだ女流画家がいました。それは、美貌の画家として知られるヴィジェ・ルブランでありましたが、運命の出会いは、「赤字夫人」と揶揄されていた 王妃マリー・アントワネットから肖像画の依頼を受けた時に、ルブランが見た王妃は、其の美しさと裏腹に、何処か寂しげだったが、同年代と言う気安さから、ありの儘の心を語る王妃に、ルブランは深い共感を覚える様に成りました。その後、「バラを持つマリー・アントワネット」を始め、ルブランは、1枚の肖像画「マリー・アントワネットと子供たち」を描くが、其処には、子供たちに囲まれた母の姿が描かれていました。只、この作品は人々に好意的に受け止められましたが、歴史の歯車は止められませんでした。ルブランは革命が起きると国外に脱出して、亡命先で王妃の死を知り深い悲しみと共に、海外を転々としながら1枚の絵「亡き後の王妃」を描きましたが、キャンバスで微笑むのは質素な衣装に身を包んだマリー・アントワネットの姿。其れは只一人残された娘マリー・テレーズの為に描かれた絵。其処には歴史の波に翻弄された1人の女性の姿がありました。画像は、黄昏夫婦で東京都美術館の「ルーブル美術館展」を見学の折。生誕250年の美しい「マリー・アントワネット王妃」の姿でしたが、日本ではフランス革命を舞台にした「ベルバラ」が話題となっていました。
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コメント
宝塚ファンの従姉妹からもらった池田理代子の「ベルサイユのばら」何巻あったかしら、夢中で読みました。なつかしのマリーアントワネット、忘れられないオスカル・・・歴史から逸れて、想いは「ベル薔薇」のほうへ・・・でも、フランス革命は正しく評価しないといけませんよね。
投稿: 貴市呉いちご | 2008年4月 4日 (金) 23時37分
コメント有難うございます。以前に「江戸博物館」でナポレオン展を黄昏夫婦で見学しましたが、其の折にA3程のキャンバスにマリーアントワネットが断頭台の前で黒い呂の様に透けている衣服で、諦めて寂しそうな表情で、佇んでいる姿の絵画を見ましたが、母親として、3人の子供を助け様としたが、適わず、諦めの其の表情が忘れられません。確かに革命は成功しましたが、ナポレオンの帰還で、革命派も分裂して多数が処刑され結局以前の「王政復古」に戻っています。ドィツ。イギリス。オランダ。オーストリヤ。の連合国の助けも、ルイ16世には間に合わず、マリー・アントワネットも断頭台の露と消えました。フランス革命の時期は、温暖化が進み農作物も不作の時が続いたとの記録が残っています。只、アントワネットのファツションに対する造詣の深さや洗礼された芸術が其の後のフランスに貢献したとの事で、現在のパリコレのほかにも、デザインの国フランスとの栄光の陰にはアントワネットの知識の貢献もあったと言はれています。
投稿: 黄昏呆助 | 2008年4月 5日 (土) 01時23分