上村松園。
上村松園は、名を
津禰(つね)。明治8年、京都の茶葉屋
「ちきり屋」で、父親の名も知らずに生まれ育ちました。母親の
仲(なか)は26歳から後家のまま2人の娘を育て上げたが、特に父を知らない
津禰は、幼い頃から絵が好きだったので、
反対を押し切って、明治20年。公立京都府画学校に入学させました。
師事したのは、南画北宗の40歳近い大家の
鈴木松年に学びましたが、15歳の時の作品が博覧会で入賞しています。だが、有名になった事で、男女共学の教室で、
美貌で紅一点の
津禰は妬まれると共に京都では、彼女が慕った師から与えられるテーマは花鳥風月が支流で、人間が書きたい。と思っても美人画は、むしろ江戸に描き手が多く、其れでも
松年に私淑して
松園の雅号を貰って独自の勉学に励みました。順調に画家人生を歩んでいた
松園だが、25歳の時。日本美術院展に出品した
「花かざり」が一等銀牌と成ると、全国的に名が知られ、又、同年のパリ万博にも
「母子」を出展して、国際的にも好評を得ています。其の順風万帆であった
松園が27歳で、何と未婚で男の子を産んだのでした。其の子、
信太郎の父は、
松園の師である
鈴木松年であると言はれています。
松園は子供を母親の
仲に預けて、画業に専念しましたが、
仲は「お前は家の事はせいでもよい。一生懸命に絵を描きなされ」と励ましてくれました。
松園は「私を産んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と感謝していましたが、其の
松園も40歳を過ぎた頃に大きなスランプに陥ります。其の頃、時代も変わり
西洋から新しい文化が入り、
松園が描き続ける古風な日本女性達にも、「固い」「感情が伝わらない」との批判も出てきました。悩んだ
松園はいつしか絵が描けなくなりましたが、彼女は、心の奥にある苦しみや悩みと共に、嫉妬の感情から目を反らさずに、新しい世界を模索した
「焔」は、恋に身を焼かれ怨霊になった女の情念を、描いた努力の傑作でした。又、
松園は亡き母の面影を求めた
「夕暮」では、「ほんの此れだけ縫ったらしまうのやよって・・・ほんに陽のめが昏らうなった」と日の暮れる迄、針を持つ手を休めない亡き母の面影と、脳裏に焼きついた母の働く姿。其れは暮らしを守り、家族をいつくしむ、日本の女性達の日々の営みでした。
松園が求めた女性の美は、華やいだ若い女性の姿でも、情念の女でも無く、其れは母の姿でした。画像は、上野「国立西洋美術館」前の本館ギャラリーで、
大空に矢を放とうとする男性像。此れは、ブルーデルの
「弓を引くヘラクルス」で、ギリシャ神話の英雄ヘラクルスが、地上からあらゆる
害悪を取り除く12の難行を成し遂げ、神性を与えられて岩に足をかけ踏み込んで、
害悪の怪鳥をまさに、
射止めようとする瞬間を捉えています。
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コメント
上村松園は、大好きな日本画家です。
宮尾登美子の上村松園を描いた小説も、
よく松園を描いていて、ますますファンになりました。
投稿: 貴市呉いちご | 2008年7月11日 (金) 22時18分