静御前の舞。
さて、源平合戦の後、兄の
源頼朝との対立があり、文治元年に
義経が、京を落ちて九州に向かう時に
静御前も同行しますが、その折りに船団は
暴風雨で難破。岸に戻されました。その時に
義経に従ったのは、源有綱・堀景光・弁慶・と
静御前のみと言はれています。後日、
義経が吉野山に隠れているとの噂が立ち、吉野山の僧兵の捜索。藤尾坂の蔵王堂で、京に向かう
静御前は、途中で従者に金銀を奪われて、山中をさまよい僧兵に捕らえられ、京の北条時政に引き渡されました。文治2年3月に母の
磯禅師と鎌倉に送られた
静御前は、一緒に鎌倉の
安達新三郎の屋敷に入りました。
静御前は、改めて問柱所の役人から
義経の行方を問われても、
義経の行方は知らないと答えましたが、只、その時に、
義経の子を宿している旨を伝えています。又、鎌倉では
工藤祐経・
梶原景茂・らのご家人達が、若者を連れて、
静御前の宿所に向かい酒に酔って艶言を言われて、
静御前も涙を溜めた事もありました。その後、鎌倉の鶴岡八幡宮に
頼朝・
政子・
大姫が参拝するので、其の折りに舞いを舞う様にと、
静御前を控えの間に召し出しますが、
静御前は「不遇の我が身で言う事は出来ずも、
義経の想われ人として晴れの場には出られず」と渋り続けたました。
政子から「天下の舞いの名手がこの地に来て近々帰るのに、其の美しい舞いが見られないのは残念な事」と
頼朝に勧め☆八幡大菩薩☆に供えるのだからと
静御前を説得。静の舞いを行う事に成りました。文治2年4月鶴岡八幡社頭の舞台で
頼朝の
正妻・政子と
長女・大姫の前で、京で1~2を、あらそう☆白拍子☆の
静御前は心を決めて舞台に立ちました。☆吉野山・嶺の白雪踏み分けて・入りにし人の跡ぞ恋しき・☆しづやしづ・しづのをだまき・繰り返し・むかしを今に・なすよしもがな☆と、☆しず☆から
義経の恋慕を堂々と吟ずる
静御前に
頼朝は激怒しましたが、潔く見事な舞いを披露した
静御前に、
政子も同じに身を置く女性の立場から
大姫と共に、深く感動して
頼朝をとりなし、怒りを鎮め、ついに祝儀まで出させました。過酷な運命の渦中とは言え、鶴岡八幡の舞台は、舞の名手・
静御前にとっては、一世一度の見せ場でありました。其の後。7月29日に
静御前は男子を産みましたが、
安達新三郎は、由比ヶ浜で、赤子を受け取ろうとします。
静御前は赤子を衣類にまとい抱き伏して、泣き叫びましたが、
安達三郎が取り上げて、即刻。由比ヶ浜で命を奪いました。その後、傷心の
静御前は京に向かう途中。下総国下辺見で
義経の最後を知り、すぐに髪を切り仏門に入るも「伊坂の里」で病に罹り9月15日に享年20歳で帰らぬ人となりました。埼玉県。栗橋の光了寺には
「静女の墓」と、「厳松院殿義静妙源大姉」の
静御前の戒名があると言はれています。画像は、熱海駅の改札前で、若い芸者さんが、正月の☆熱海花火大会☆の宣伝パンフを配っている処を、了解を得てのスナップでした。
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