石川啄木の生涯。
石川啄木は、禅寺で産まれて神童と言れる程でしたが、明治38年、20歳になつた5月に処女詩集「あこがれ」を出版。翌6月に年来の恋人、19歳の
☆堀合節子☆と結婚。盛岡加賀町に居を構えて得意の絶頂でありました。だが、岩手の渋民村では、生家の寺と檀家との間で、いざこざがあり、20歳に成ったばかりの
啄木の弱肩の上に、一家扶養の重荷が降りかかります。その後、渋民村を離れ、盛岡。東京。札幌。小樽。釧路。と住まいを転々としました。 盛岡では周囲から、借金の批判を浴びながらも「中津川や月に河鹿(かじか)の啼く夜なり、涼風追ひぬ夢見る人と」明治37年7月の
「明星」に、
節子と連作の歌が掲載され、家計は火の車でも仲睦まじく暮らした様子でしたが、借金はさらにかさみ、渋谷村に舞い戻り小学校の代用教員と成りますが、長続きせず「石もて追わるる如く」北海道に渡り、此処で道内の新聞社を渡り歩きます。明治41年、再び単身で上京。
啄木が、23歳の時、すでに、長女
京子は2歳でありましたが。
節子親子は、姉が嫁いだ
宮崎郁雨の好意で、函館の家に世話になりました。東京では
啄木は、朝日新聞社に入社しましたが、浅草での遊興や借金返済で生活は改善されず、
節子は娘共々、盛岡の実家に戻りました。其処では、中学校以来の親友であった
金田一京助を始め多くの友人の骨折りで、
節子は東京に戻りましたが、其の時の
啄木は、
節子なしの生活は、考えられない様子でした。その後、
啄木も、明治43年10月に長男。
真一をもうけましたが、体質虚弱にて生後20日ばかりで亡くなり、
啄木が帰宅する2分前に息切れたと日記に残してあります。「かなしくも夜明くるまでは残りいぬ、息切れし児の肌のぬくもり」との歌は、時を同じくして届いた歌集
「一握の砂」の校了紙に追記されています。
節子と結婚前の
啄木は
与謝野鉄幹、
晶子夫婦の処で、居候として世話を受けると同時に
「明星」を手伝いながら短歌を磨きました。其処で、
啄木は、北原白秋。木下杢太郎。平出 修。平野万里。との交流を深めましたが、明治43年、其の
「明星」も8年の歴史を閉じました。同時に
啄木も短歌をまとめた歌集
「一握の砂」を刊行しましたが、此の年の暮れから胸部に異常があり、年越えて明治44年肺結核で入院。明治45年4月13日。ついに、体力が尽きて永眠しました。其の1年後の5月には妻
節子も、同じ肺結核で生涯を閉じています。尚、☆東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたわむる。☆たはむれに母を背負ひてそのあまり、軽きに泣きて三歩あゆまず。☆等の歌を残しましたが、
啄木の没後に詩集と歌集が刊行されました。
啄木調の新しい表現と甘美で、感傷的な歌風を作り上げた短い生涯でしたが、其の抒情は現代でも尚、広く愛唱されています。画像は、満福寺の
寿老人。兄、頼朝に義経が腰越の満福寺に留まって、腰越状を書いた義経伝説の寺院ですが、☆
寿老人☆が祭ってありました。


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