皇女和宮と徳川家茂。
大老・井伊直弼が、暗殺された事で、徳川幕府の権威も失墜して、勤王の志士たちは倒幕に動きはじめたので、危機感を抱いた幕府は朝廷に「公武合体運動」を展開。将軍・徳川家茂(いえもち)との婚約に、孝明天皇の妹である皇女・和宮(かずのみや)の降嫁を進めました。和宮はすでに有栖川宮家と婚約と言う事に成っていたので、降嫁を拒絶したが、天皇が和宮の代わりに幼い自分の娘を、家茂に嫁がせ様とさえ思いつめたので、和宮は苦悩の末に「御嫌さまの御事ながら、御上の御為と思召し、関東へ成らせられ候」と手紙を送って降嫁を承諾したのでした。 文久元年和宮の輿入れが正式に決定して、同年秋に和宮は江戸に下りました。 幕府は総勢15,000人の花嫁行列を仕立て江戸まで、大パレードを繰り広げていましたが、和宮の心は晴れず、「落ちていく、身とは知りながら 紅葉ばの人なっかしく、こがれこそかれ」と有栖川宮への想いを詠んでいます。 翌年、2月11日、将軍家茂と正式に結婚しました。 家茂は紀州家から14代将軍に成りましたが、聡明で思いやりが深く家茂の優しさに、和宮も本気で将軍を愛し始めてゆきました。家茂も珍しい金魚や鼈甲の簪などプレゼントしましたが、和宮も好きなお菓子を度々差し上げて、家茂と会っての会話を楽しんでいました。 又、和宮は家茂の無事を祈って、お百度を踏んだとも言はれています。家茂は「第2次長州征討」の最中、大阪城において、にわかの病の為に、慶応2年5月16日に21歳の若さで病没しましたが、家茂の側近から和宮が、お土産にとねだった西陣の織物を手渡されて、病中もその事を、忘れていなかった家茂に和宮も号泣しました。 「空蝉の唐織ごろも、なにかせむ、綾も錦も君ありてこそ」と和宮も歌を詠んでいます。 慶応4年鳥羽伏見の戦いに敗れた15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)は江戸に逃げ帰って来ました。「もし官軍が江戸城を攻めるのであれば、自分は徳川と運命を共にする」と嘆願書に記していますが、 この和宮の尽力は、決して小さなものでは有りませんでした。 明治の世を迎え和宮は、明治2年に京都に戻って生活しますが、再び江戸にたち帰り、東京、麻布の閑静な屋敷で静かに暮らして、明治10年9月23日に「脚気衝心」(かつけしょうしん)の為に32歳で其の生涯を閉じました。 生前の本人の希望によって遺骸は、芝増上寺に葬られてたが、墓は家茂の隣りに安置されて、今でも増上寺の墓地には、二人の墓が仲良く並んで建っています。 さて、町内の祭りで、「御輿」の画像を載せましたが、大人の御輿に、子供も参加していました。 「祭りの起源」は、平安京に都(みやこ)が定められた後の、869年。天下に、疫病が流行して多数の死者が出たので、世間では、此の疫病は「牛頭天王」なる神の祟りとして、其れを鎮める為の祭りがあった。と記され 其れと共に諸説は色々とあるも、土地の神に稲作を行う事の許しと、来る年の豊作を祈ったのが、「祭りの起源」である。とも言はれています。





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