2006年9月17日 (日)

皇女和宮と徳川家茂。

Dscf0159 大老・井伊直弼が、暗殺された事で、徳川幕府の権威も失墜して、勤王の志士たちは倒幕に動きはじめたので、危機感を抱いた幕府は朝廷に「公武合体運動」を展開。将軍・徳川家茂(いえもち)との婚約に、孝明天皇の妹である皇女・和宮(かずのみや)の降嫁を進めました。和宮はすでに有栖川宮家と婚約と言う事に成っていたので、降嫁を拒絶したが、天皇が和宮の代わりに幼い自分の娘を、家茂に嫁がせ様とさえ思いつめたので、和宮は苦悩の末に「御嫌さまの御事ながら、御上の御為と思召し、関東へ成らせられ候」と手紙を送って降嫁を承諾したのでした。 文久元年和宮の輿入れが正式に決定して、同年秋に和宮は江戸に下りました。 幕府は総勢15,000人の花嫁行列を仕立て江戸まで、大パレードを繰り広げていましたが、和宮の心は晴れず、「落ちていく、身とは知りながら 紅葉ばの人なっかしく、こがれこそかれ」有栖川宮への想いを詠んでいます。 翌年、2月11日、将軍家茂と正式に結婚しました。 家茂は紀州家から14代将軍に成りましたが、聡明で思いやりが深く家茂の優しさに、和宮も本気で将軍を愛し始めてゆきました。家茂も珍しい金魚や鼈甲の簪などプレゼントしましたが、和宮も好きなお菓子を度々差し上げて、家茂と会っての会話を楽しんでいました。 又、和宮は家茂の無事を祈って、お百度を踏んだとも言はれています。家茂「第2次長州征討」の最中、大阪城において、にわかの病の為に、慶応2年5月16日に21歳の若さで病没しましたが、家茂の側近から和宮が、お土産にとねだった西陣の織物を手渡されて、病中もその事を、忘れていなかった家茂和宮も号泣しました。 「空蝉の唐織ごろも、なにかせむ、綾も錦も君ありてこそ」和宮も歌を詠んでいます。 慶応4年鳥羽伏見の戦いに敗れた15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)は江戸に逃げ帰って来ました。「もし官軍が江戸城を攻めるのであれば、自分は徳川と運命を共にする」と嘆願書に記していますが、 この和宮の尽力は、決して小さなものでは有りませんでした。 明治の世を迎え和宮は、明治2年に京都に戻って生活しますが、再び江戸にたち帰り、東京、麻布の閑静な屋敷で静かに暮らして、明治10年9月23日に「脚気衝心」(かつけしょうしん)の為に32歳で其の生涯を閉じました。 生前の本人の希望によって遺骸は、芝増上寺に葬られてたが、墓は家茂の隣りに安置されて、今でも増上寺の墓地には、二人の墓が仲良く並んで建っています。 さて、町内の祭りで、「御輿」の画像を載せましたが、大人の御輿に、子供も参加していました。 「祭りの起源」は、平安京に都(みやこ)が定められた後の、869年。天下に、疫病が流行して多数の死者が出たので、世間では、此の疫病は「牛頭天王」なる神の祟りとして、其れを鎮める為の祭りがあった。と記され 其れと共に諸説は色々とあるも、土地の神に稲作を行う事の許しと、来る年の豊作を祈ったのが、「祭りの起源」である。とも言はれています。

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2006年9月 6日 (水)

大姫と義高の悲恋。

Dscf0137 鎌倉幕府を樹立して、武家の棟梁として君臨しようとする「源頼朝」にとつて、討伐すべき敵は平家だけでは無かったのです。なかでもいち早く京の都を占領した「木曾義仲」の存在は頼朝にとって、邪魔者でしか有りません。頼朝義仲追討の軍を京に差し向け。・・・こうした同族相打つ戦乱絵巻のなかの此れは、寿永2年に、頼朝の長女「大姫」 (おおひめ)6歳と、人質として鎌倉に差し出された義仲の子「義高」(よしたか)11歳との間に芽生えた恋心が、幼い二人に育まれた恋物語ですが、その後、義仲は京に進軍。翌年には源範頼。義経の追討軍に破れて近江栗津で討ち死にしました。その頃、鎌倉では、木曾義高は幼い大姫の小さな手を引いて遊んでいます。大姫義高を慕う思いは幼いながらも一途で、二人の許嫁として頼朝の妻「政子」を始め、仕える女房からも温かい目で見守られていました。「吾妻鏡」に依れば、頼朝は、義高を殺そうと思い立ちましたが、此れを察した女房達が大姫に内密に知らせて、義高を女装させて、館を脱出させました。追っ手に追われて義高も入間川の河原で、斬られて命を落しましたが、大姫の小さな胸は張り裂けんばかりで、涙ながらに政子にしがみつき、とうとう水断ちまでしました。其の後、頼朝「一条高能」(たかよし)との縁談を問うが、大姫から縁談を強いるなら自害すると拒絶されています。その後、大姫の健康もすぐれず、幼少の胸にあつた義高の面影を思い浮かべれば失意は増して、生きる力も失せて、心身共に少年・義高に捧げ、悲しい哉20歳で悲恋の生涯を閉じました。画像の御堂は無量の光明を持って全ての人の求願を満たされる、阿弥陀如来を安置する処から「光明殿」と言われて、光明殿道場と、法要仏事の斎場と共に、「八角祈願殿と不動明王堂」。を弘法大師御遠忌事業として、西新井大師寺内に建立された御堂で御座います。

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2006年9月 4日 (月)

静御前。

Dscf0109 鎌倉時代の歴史を、駆け抜けた悲劇の武将・「源義経」に愛されて、彼の有名な「鶴岡八幡宮」での「静の舞」は、誇り高く生きた「静御前」の物語と成っています。文治元年11月17日頼朝に追われて「源義経」と吉野の山中で別れた「静」は、捕らわれの身となって、鎌倉に送られましたが、此の時には愛しい義経の子を宿していました。頼朝の命で義経の行方について厳しい追及がありましたが、知らないものを聞き出すことは出来ませんでした。幾多の功績にもかかわらず義経の様に、不器用に生きる男に愛された「静」の思いは、どの様なものであったのでしようか、同年4月8日。鶴岡八幡社頭での「静の舞」は、頼朝の正室・政子。長女・大姫(おおひめ)のたっての希望であったと言うので、「静」は心を決めて舞台に立ちました。「吉野山、嶺の白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき、しづやしづ、しづのをだまき繰り返し、昔を今に、なすよしもがな」と義経への恋慕を堂々と吟じて無情な設定の中で、潔く見事な舞いを披露した「静」に頼朝は激怒しましたが、特に政子は、身を置く同姓の立場から深く感動して、大姫と共にとりなして、頼朝の怒りを鎮めて、ついには祝儀まで出させました。残酷な運命と言えども、鶴岡八幡の舞台は、舞の名手・静御前にとって一世一代の見せ場でありましたが、博学の誉れ高い藤原通憲(ふじわらみちのり)に白拍子を学んだと言う、母の磯禅師(いそのぜんじ)から厳しく仕込まれた歌舞の才能の見せ処でもありました。閏7月29日、産まれた子は男子なので、即刻、由比ヶ浜で命を奪われ「16日、静・母子暇を賜りて帰洛す」と「吾妻鏡」に記してあり、母子とは、静と磯禅師の事で、鎌倉を後に母親と共に京に向かいました。「義経記」によれば、帰京した静は「てんりう寺のふもとに、草の庵を引き結び」とあり、磯禅師と共に厭世の生活を送つていましたが、我が子まで殺された運命に耐えきれずに、翌年20歳で無念の悲恋を秘めながら他界したと言はれています。画像の御堂。「光明八角殿」は、阿弥陀如来を安置する「光明殿」の脇にあり、光明殿道場と共に、八角祈願殿と言われ祈願満足と、福徳を与えられる事を、阿弥陀如来にお願する祈願殿ですが、「不動明王堂」と併せて、弘法大師御遠忌として、建立された御堂であります。
 

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2006年8月21日 (月)

小野小町の文塚。

Dscf0103 古今和歌集で、小野小町は、「おもいつつ寝ればや人の見えつらむ、夢と知りせば覚めざらましを」 《いちずに思いながら寝たので、あの方が夢に現れて下さったのであらうか、もし夢とわかつていたなら目を覚まさないでいたのに》 と歌い、又、古今集「夢の逢い」小野小町が詠んだ歌に、「いとせめて、恋しきときはむばたまの、夜の衣を反(かえ)してぞ着る」 《胸がふさがるほど恋しくて成らない時は、あの人を夢で見た時の夜の衣をいと願って、その衣を裏返しにして身をつつむ》 と愛する人に夢でもいいから逢いたいと願う、切ない恋心を歌っていますが、絶世の美女であり、秀麗な歌人と謳われた小野小町と言えども目が覚めて、はかない幸せを夢と知る時の虚しさは、言いようもない思いだつたのと、絶世の美女と言はれた小野小町でも、恋は思う様にはならなかった様子でした。小野小町のゆかりの寺・随心寺(京都市山科区)には、小町が男性から貰った千通の恋文を、埋めたと言う文塚が残っていますが、当時の夢は信仰の様なもので、恋人が夢に現れるかどうかで、恋人や自分自身の気持ちを確かめていたとの事でした。画像は7月9日に「西新井大師商栄会」青年部の企画した「よさこい祭り」ですが、特に高校生の若い男女が、「め組」独特の半纏地下足袋姿で、活気のある踊りを披露していました。この後8月20日21日と「大師祭り」で、境内には、踊り櫓が建って、阿波おどりと、流し踊りの華麗な舞い夏の夜景に見物の人々から盛んな拍手がわき上がっていました。

 

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