2006年5月16日 (火)

楠本イネ。

ドィツ人医師シーボルトと楠本滝の間に生まれた幼女のイネは、父の影響を受けて赤毛なので、異人の子と言はれ苦労して外産科医学を学びました。当時は産婆の助けを借りて陣痛に苦しみながらの出産なので、死亡率も高く西洋医学に比べて、遅れていた従来の出産方法の改善と婦人病の治療に、女医として貢献しました。其の後医療に専念。明治三年築地で産科医院を開業。福沢諭吉の推挙により宮内省で、若宮(大正天皇)の誕生に奉仕したと伝えられています。荻野吟子が日本初の女性医師と言はれていますが楠本イネの方が蘭方女医師として、年代と実績も先、との記録があります。

| | コメント (0)

シーボルトの娘イネ。

               シーボルトの娘。蘭方女医師楠本イネ。
 シーボルトは、江戸時代後期に、オランダ東インド会社の日本商館付医員として、来日したドイツ人医師。文政6年28歳で来日。出島の商館に勤務して長崎に滞在中に、丸山遊女の楠本タキとの出会いでタキが好きになり、タキもシーボルトに好意を寄せて交際が続き、そのうちにタキも身ごもり、出産の時にはオランダ商館シーボルトの子として、(イネ)が生まれました。
 しかし「シーボルト事件」で父が文政12年12月に、日本を去った時にはイネは2歳8ヶ月でありましたが、イネは父親譲りの赤毛で色白の彫りの深い顔立ちで、其の身柄は父の門人二宮敬作に託されて成長し、母の生家の楠本イネを名乗り、弘化2年より嘉永4年まで、町医師石井宗謙に産医学を学びました。
 其処で、村田蔵六(後の大村益次郎)にブルーハブェと言う、当時では珍しい物理の本についての解読法を、教わっていた時に淡い恋心が芽生えましたが、その時にはイネも宗謙の子を宿していて、出産も生理現象だと割り切つて産医学の知識と経験をもつて、独りで出産に挑んでタカ女を産みました。
 女性が子を産むことの全課程を我が身で知り、当時の女性は出産に際して薄暗い納戸部屋や土蔵で、産婆を相手に生死の境をさまよっているのに、母屋では、夫が一族と酒を酌み交わしながら、出産を待っていると言う状態で、この現状が、出産は不浄なものと扱われている風習に気づき、出産に対する考えを此れからは、変えてゆかなければ成らないと、安政元年より文久元年まで、育て親の宇和島の医師。二宮敬作に就いて、それぞれ産科術を修行しながら安政6年以降、明治2年までは、オランダ医師。ポンペに外産科術を学びました。
 蘭方女医師イネと大村益次郎(村田蔵六)の恋も明治2年。明治政府の要職にある彼が、新兵制に不満を抱く士族の刺客に刺され、其の傷がもととなって敗血症となつた時から、イネは絶え間なくガーゼと包帯の交換に追われ、食事から排便の始末まで、総てをイネが行ったが手遅れとなり、明治2年11月5日益次郎が、付き添うイネに見もられながら、静かに息を引き取る迄、続きましたがその後、維新史で村田蔵六が、大村益次郎と言はれています。現在いろいろと問題になっている靖国神社は、そもそも大村益次郎の発案で戊申戦争の戦死者を弔い、明治2年に招魂神社と共に、英霊の御霊を悼むために設立されましたが、彼の銅像は現在も、靖国神社の境内に建てられています。         明治3年イネは横浜に戻り、その後、間もなく医師として東京に出て、築地2丁目で産科医院を開業。明治6年福沢諭吉の推挙により、宮内省御用掛となり権典侍、葉室光子の若宮誕生に立ち会い、誕生後、長崎に帰りましたが、再び宮内省の要請で上京。麻布狸穴に開業して、晩年は寡婦となった娘のタカを相手に琴、三味線に明け暮れる静かな余生で、明治36年77歳で没しました。

| | コメント (0)