2007年8月 7日 (火)

八百屋お七。

Dscf0712 「八百屋お七」(やおやおしち)は江戸は本郷の八百屋の娘と言われています。当時の木造住宅中心の江戸での放火は、殺人罪より重い罪だったので、放火の事情はどうあれ、兎に角「八百屋お七」と言えば不届き至極と言う、レッテルが貼られて当時のマスコミにも扱われた訳ですが、マスコミの報道が一方的である事は、江戸時代も現代も余り変わらない様でした。天和2年12月深夜。駒込大園寺から出火した火災は本郷、日本橋から墨田川を越えて本所、深川にも及び、火災から逃れる人でごった返していました。此の時に生き延びた一家の中に本郷の八百屋八兵衛の家族が普段から付き合いの深かった旦那寺駒込の吉祥寺で難を避けた仮住まいの雑居生活の中で八兵衛の一人娘、お七の姿は桜の花の様美しく、冴えわたる夜半の月の様に清楚だつたと言はれていますが、其の寺の寺小姓であった吉三郎も、人目を引く程の美男子でした。程なく若い二人も忍ぶ仲となり夜更けて、お七吉三郎の寝所で、夜具に滑り込んで、其のままに楽しい恋をとげる事と成りました。やがて焼け跡にも家が建ち、二人は離ればなれになり、逢う事も儘成らず時は過ぎて行きました「火事さえあれば、又、愛しい吉三郎様に会える」と幼い恋の情熱から、ある風の強い夕暮れに、お七は付け火を思いつきましたが、火は燃え広がらずに、お七は捕らえられて天和3年3月に、鈴ケ森の刑場で「火あぶりの刑」に処せられました。其の時に市中を引き回され晒れるお七の美しさに、見る者は皆、哀れを禁じ得ませんでした。又、吉三郎お七恋さに病の床に伏して、お七の哀れな運命を知る事も叶わず、お七の刑死を知り自害するが果たせず、美童の前髪を落として出家する姿に、周囲は哀れを誘いました。尚、お七は、捕らえられた時にはまだ16歳に成ったばかりでしたので、其の可憐な姿に奉行も15歳ならば死刑には成らないので、お七は15歳だろうと何度も聞きましたが、お七は正直に16歳であると主張して刑に服しました。井原西鶴の処刑が終わった3年後の貞享(じょうきょう)3年に、お七を浮世草子「好色五人女」に登場させていますが、現在に残る菅専助「伊達娘恋緋鹿子」黙阿弥「松竹梅雪曙」の浄瑠璃では、お七吉三郎を救う為に火の見櫓で、半鐘を鳴らすのが恒例となっています。画像のの墓は白山の円乗寺ですが、歌舞伎の岩井半四郎が浅黄麻の葉鹿の子の衣装で演じた「其昔恋の江戸染」が女性の評判になり、公演の成功を祈って建立した供養塔があり、奉納織旗には板東玉三郎の名も載っていて、縁結びと火伏せの信仰がありました。其の為に、芸能関係や日本舞踊のお師匠さんと連れだって、若い娘さんの参拝が多いと言う事でした。 

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2006年8月14日 (月)

平井権八と小紫。

Dscf0125 平井権八は吉原の遊女小紫に惚れて通いつめていたが、ある夜、金に窮して追い剥ぎをする事にして、吉原帰りの商人を、お地蔵さまの背後に隠れて待ち伏せ、金を奪って殺したが、其の悪事もバレて捕まり鈴ケ森の刑場で獄門になっています。  又、小紫は江戸吉原三浦屋の抱え遊女で、美貌の名妓と言はれていますが、平井権八が刑死すると、それに殉じて、目黒東昌寺の権八の墓前で自害したのが、目黒不動前の「比翼塚」に其の由来が残されています。 ちなみに、「比翼」と言うのは二羽の鳥が翼を並べる形で、相思相愛の男女の形容に用いられて、比翼塚は情死や、後追い心中した男女の合葬塚でありました。 文政六年市村座で初演された「御存知鈴ケ森」では、江戸花川戸の侠客、幡随院長兵衛が、たまたま処刑場鈴ケ森を通りかかり、ゆすりたかりの雲助たちを相手にして、見事な立ち回りを見せる白井権八(歌舞伎では白井権八になっている)を見て、其の大胆さにすっかり惚れ込んでしまい「お若けぇ~の!お待ちなせぇ~」のかけ声と共に、小紫は21歳前後。権八25歳と言はれていましたが、権八は悪人でも小紫の後追い心中に鶴屋南北の作品が、其の台詞と共に歌舞伎で、評判を呼び同情の念を呼び覚まし、江戸っ子の意地と誠を張り通した遊女として、其の心意気には多くの人々の涙を誘いました。 さて、西新井大師さんの境内に、不動堂がありますが、其の脇の「水子の供養堂」に、大きな地蔵菩薩が置かれています。 其の廻りには、この世に生を得なかった水子や、幼くしてこの世を去った幼児の為の梵字(三途の川で鬼に虐められない様に)の書かれた小さい白い供養石が沢山並んでいます。 お線香の煙が漂う薄暮の刻に、「水子の供養堂」がひっそりと佇み、母親が我が子に供えた赤い風車が、風にカラカラと小さい音をたてて廻り、お盆の頃にはお参りの人が絶えません。

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2006年8月 5日 (土)

額田大王。

Dscf0077 大化の改新後の激動の時代に、☆紫草のにほえる妹☆とうたわれた「額田王」(ぬかたのおおきみ)は、古今最高の女流歌人と言はれて、其の歌は優麗にして、格調高く人々の心を動かしたと言はれています。「いにしへに恋ふらむ鳥は、ほととぎす、けだしや鳴きしわが念(も)へるほど」  ホトトギスは昔を想って鳴くそうですが、あの人の事を思う私のように、きっと激しく鳴くのでしょうね。と初恋の人を想い、女性ながら時の権力者である兄弟の天智。天武。の両帝に愛されて、悠久の華やかな恋に生きた誇り高き歌人。額田王は、十市皇女(といちのひめみこ)までもうけた大海人皇子(おおあまのみこ)と言はれた「天武天皇」と別れて、天智天皇(大海人の兄)に寵愛されていました。天智天皇も額田王の姉と言はれている「鏡王女」 (かがみのおおきみ)と別れてからの事でしたが、この歌に浮かび上がる当時の激しい恋の日々が偲ばれます。しかし二人の崩御後は、一人で隠棲したと伝えられています。現代では考えられない、何とも複雑な古代の恋系図でしたが、されど凛として生きる女性の姿は、此の時代にはよくあるパターンと言はれていました。画像は大師さん参詣の前に、手を洗い口を濯ぎ身を清める水屋での、唐金製の台座の唐子童像ですが、天保年間に制作されたもので、唐子童の担いでいた唐金製の水桶は、第2次大戦で他の仏具と共に供出されて、唐金の唐子童だけが、四方から現在も石で出来た水桶を支えています。

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2006年7月20日 (木)

シーボルトとお滝さん

Dscf0058 さて、オウムに言葉を覚えさせる時によく「おタケさん」と言って覚えさせますが、其れはそもそも「お滝さん」だつたと言はれています。 「お滝さん」とは、ドィツ人医師シーボルトの愛した日本女性、楠本滝の名前だったのです。文政6年、日本商館付医員で来日。丸山遊女の楠本滝を好きになり、一緒に暮らした(楠本イネと荻野吟子参照)シーボルトの邸宅では一羽のオウムを飼っていましたが、当時では珍しいこのオウムに、惚れた「お滝さん」の名前を覚えさせていました。只、シーボルトのドィツ語訛りの日本語では、オウムのお喋りも「おタケさん」となり、此の「おタケさん」が、オウムに言葉を教える時の定番と成ている様です。又、お滝さんの好きだった日本独自の花。紫陽花の植物学名も「お滝さん」と名付けましたが、ドィツ語訛りの「ヒドランドゲァ・オタクサ」と成つています。尚、画像の出世稲荷神とは、本来五穀の神である倉稲魂神(うかのみたま)を祀つていますが、嵯峨天皇より東寺に賜りました折りに、明神が翁の姿で現れ救いを垂れましたので鎮守として祭られました。黄昏庵では娘。息子。孫も、お願いに霊験があり、近在の人も参詣している有り難いお稲荷さんです。

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2006年7月14日 (金)

よさこい祭り。

Dscf0068 7月9日は、足立区西新井大師さんで、「よさこい祭り」があり、各連が「よさこい踊り」の流し踊りを競いました。よさこい踊りは高知から流行った様で、勇壮な若者向けの踊りで、阿波踊りや盆踊りとは違って、若者のバリェーション豊かな体操と、阿波踊りの合体の様で、鉢巻きを締めて独特の半纏で踊り、特に高校生の若い男女が「め組」の特攻半纏?地下足袋姿で華麗に踊り、最後に「め組」の大きな旗を振って踊るのは、若者特有の活気があって楽しめました。!(^^)! 中には若者に負けずとばかりに、50~60歳代の昔!(^^)!美人?オバンの50~60人の連も居ましたが、これは、介護リハリビ軍団だぁ~とのヤジも飛び、父ちゃん天国。私しゃ極楽。(*_*)とばかりに楽しんでいました。又、若いママ軍団は(*^_^*) 幼稚園の我が子と共に踊り、中には、半纏鉢巻きの小さな幼女もいましたが、お母さんが子供を忘れて夢中に踊り、ヨチヨチ歩きの幼女が遅れると、後ろの他の連の若いママが、お互いに面倒を見ながら踊るという、ほほえましい姿も見られました。女性は強いですねぇ~(^^;) 連の人も越ケ谷。千葉の三番瀬チーム朝霧鳴子一族。大江戸東京音頭「め組」と各地からの連で大変でした。見物の人出も多かったのですが、今年初めての「よさこい祭り」なので、来年は結構、もっと見物人も集まる様になると思います。世の中はミサイル問題で騒がしい時ですが、「よさこい祭り」の様な平和で楽しい日本を何時までも残して置きたいと考えています。画像は大師さんの「如意輪堂」と言われて、観音像が祭られて何時の頃からか、女人願望に特に霊験があり、其の功徳が多いので☆女人堂☆と言はれて、女性の参拝者が後を絶たないと言はれています。

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2006年6月24日 (土)

防人の詩

Photo_5 さて、イラク派遣の自衛隊も任務も無事に終わり、航空自衛隊を残して帰国しますが、今年のお正月に着飾った初参りの娘達が、除夜の煩悩の鐘も済んで「明けましておめでとう」!(^^)!の声と共に、一斉に携帯の画面を開いています。其処には「アケオメ!(^^)!」「コトヨロ(*_*)」のメールが、ピースサィン(^_^)vの写真付きで写っていました。其の昔。防人(さきもり)の詩に「我が妻も絵に描き取らむ暇(いっま)もが旅、行く我れは見つつ偲はむ」(せめて妻を絵に描く時間があったら、其れを見て妻を思うのに)と詩っていましたが、此れは現在の写メールと同じ発想でした。イラクの自衛官も家族の写メールを見て、現代の防人の心境だったのでしょう。

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2006年6月23日 (金)

鉄道博物館

  交通博Photo_4物館は、神田万世橋で開館してから70年に成りましたが、戦時中には、「杉野はいずこ杉野はいずゃ♪」と杉野兵曹長を沈みゆく艦上で探す、広瀬中佐の銅像が建っていました。戦後この銅像は取り外されましたが、現在でも、公開日は親子連れ(^O^)で賑わつています。館内は陸。海。空の乗り物の実物を集めた博物館ですが、特に蒸気機関車「義経号」と「弁慶号」も展示されていました。又、「汽笛一声新橋を♪」の鉄道唱歌で有名な、一号蒸気機関車「やえもん号」は!(^^)! 明治5年に日本で最初の鉄道が敷かれて、新橋~横浜間を走りました。この交通博物館も秋葉原の近代化の波に逆らえず、平成18年5月14日で閉館。都内で子供達の楽しみな施設が消えて行きましたが、埼玉県大宮市で新しく開館されます。

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2006年6月10日 (土)

大塚楠緒子「お百度参り」

Photo  さて、情熱の歌人。与謝野晶子は日露戦争で、「君死に給うことなかれ」を発表して、親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて人を殺せとおしえしか。・・・・かたみに人の血をながし獣の道に死ねよとは、・・と、反戦を謳歌したのに対して、大町桂月からの反論に対して「まことの心うたわぬ歌に、何のねうちか候べき」と「ひらきぶみ」にて反駁しましたが、其の折りには、才色兼備の誉れ高い佳人と評判の、大塚楠緒子も「お百度参り」の歌で「ひとあし踏みて夫(つま)思い。ふたあし国を思えども、三足再び夫(つま)思う。女心に咎ありゃ」と晶子を援護。桂月を批判していました。老人が始めて、若者が死に、女性と子供が泣く。戦争の悲惨に対する率直な女心は、現在でも変わらないでしょう。

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