八百屋お七。
「八百屋お七」(やおやおしち)は江戸は本郷の八百屋の娘と言われています。当時の木造住宅中心の江戸での放火は、殺人罪より重い罪だったので、放火の事情はどうあれ、兎に角、「八百屋お七」と言えば不届き至極と言う、レッテルが貼られて当時のマスコミにも扱われた訳ですが、マスコミの報道が一方的である事は、江戸時代も現代も余り変わらない様でした。天和2年12月深夜。駒込大園寺から出火した火災は本郷、日本橋から墨田川を越えて本所、深川にも及び、火災から逃れる人でごった返していました。此の時に生き延びた一家の中に本郷の八百屋八兵衛の家族が普段から付き合いの深かった旦那寺、駒込の吉祥寺で難を避けた仮住まいの雑居生活の中で八兵衛の一人娘、お七の姿は桜の花の様に美しく、冴えわたる夜半の月の様に清楚だつたと言はれていますが、其の寺の寺小姓であった吉三郎も、人目を引く程の美男子でした。程なく若い二人も忍ぶ仲となり夜更けて、お七は吉三郎の寝所で、夜具に滑り込んで、其のままに楽しい恋をとげる事と成りました。やがて焼け跡にも家が建ち、二人は離ればなれになり、逢う事も儘成らず時は過ぎて行きました。「火事さえあれば、又、愛しい吉三郎様に会える」と幼い恋の情熱から、ある風の強い夕暮れに、お七は付け火を思いつきましたが、火は燃え広がらずに、お七は捕らえられて天和3年3月に、鈴ケ森の刑場で「火あぶりの刑」に処せられました。其の時に市中を引き回され晒されるお七の美しさに、見る者は皆、哀れを禁じ得ませんでした。又、吉三郎はお七恋さに病の床に伏して、お七の哀れな運命を知る事も叶わず、お七の刑死を知り自害するが果たせず、美童の前髪を落として出家する姿に、周囲は哀れを誘いました。尚、お七は、捕らえられた時にはまだ16歳に成ったばかりでしたので、其の可憐な姿に奉行も15歳ならば死刑には成らないので、お七は15歳だろうと何度も聞きましたが、お七は正直に16歳であると主張して刑に服しました。井原西鶴がお七の処刑が終わった3年後の貞享(じょうきょう)3年に、お七を浮世草子「好色五人女」に登場させていますが、現在に残る菅専助の「伊達娘恋緋鹿子」と黙阿弥の「松竹梅雪曙」の浄瑠璃では、お七は吉三郎を救う為に火の見櫓で、半鐘を鳴らすのが恒例となっています。画像のお七の墓は白山の円乗寺ですが、歌舞伎の岩井半四郎が浅黄麻の葉鹿の子の衣装で演じた「其昔恋の江戸染」が女性の評判になり、公演の成功を祈って建立した供養塔があり、奉納織旗には板東玉三郎の名も載っていて、縁結びと火伏せの信仰がありました。其の為に、芸能関係や日本舞踊のお師匠さんと連れだって、若い娘さんの参拝が多いと言う事でした。









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